Desiree Rancatore(デジレ ランカトーレ)は1977年イタリア生まれのソプラノ歌手
来日も何度かしており、日本にもそれなりにファンがいると思われる。
今年もボローニャ歌劇場の引っ越し公演でリゴレットのジルダを歌う予定なのだが、
私自身、学生時代からランカトーレの歌は聴いているが、上手いと思ったことが一度もない。
そんな訳で今回は、ランカトーレの声が大枚を払って聴くに値する声なのかを分析する。
まず、この人のキャリアは凄まじいことに、
オペラデビューが19歳で、ザルツブルク音楽祭のフィガロの結婚(バルバリーナ役)である。
その後もザルツブルク音楽祭に出続けているが、1998年の音源があるので、
そこから分析を開始する。
ヴェルディ ドン・カルロ (役は天の声)
同年のザルツブルク音楽祭のコンサート
モーツァルトのコンサートアリア Ma, che vi fece, o stelle
年齢を考えれば上手いとも言えるが、これはザルツブルク音楽祭という一流アーティストが集う音楽であり、
ドン・カルロに至ってはロリン マゼールのような巨匠が指揮をしている。
そんな舞台に立つべき声ではない。
※この地点で色々勘繰りたくなりますね。
高音で綺麗な声が出る。
というだけで、歌になっていない。
例えるなら、
フィギュアスケートで、身体が動く20歳前にジャンプだけで得点を荒稼ぎしてメディアの注目を集めるも、
身体の変化でジャンプが鈍ると他の要素では何の魅力もなくなってしまう選手。
高音やコロラトゥーラの技巧以外に聴かせることができない歌手の寿命は非常に短い。
モーツァルト 魔笛 Der Hölle Rache
完全に喉が閉まってますね。
私は聴いていて喉が痛くなってくるので全部聴けないのだが、
最高音のハイF、その1オクターヴ下の音(五線の上の方の音)、
更に低音で全てポジションが変わってしまっている上、全て上半身で処理している。
同じイタリア人のソプラノ、セッラの歌唱と比べて頂ければ違いがはっきりわかる。
ルチアーナ セッラ
ランカトーレの褒めるべきことを挙げるなら、
イタリア人としてはドイツ語の発音が良いことくらい、
後は褒められたものではない。
持って生まれた楽器だけで演奏しているだけだ。
例えるなら、数億円のヴァイオリンを普通の音大生が弾いている、といったところか。
こういう勢いで高音を出しているだけの歌唱を、
日本では「ベルカント」と書いてしまうのだから、
悪質を通り越して罪深い。
彼等にとってはイタリア人の歌手が歌えば何でも「ベルカント」
と付ければ良いとでも思っているのだろうか?
デ・クルティス Non ti scordar di me
東京でのリサイタルのアンコール。
全く発声に改善が見られない。
分かり易いのは、(1:58~)のタイトルと同じ歌詞を歌うところで、
”non””ti”scor””dar”の歌詞で全てポジションが変わっているため、
あえてレガートで歌っていないのか?と思わせるほど音がブチブチ切れている。
トドメの”dar”なんて、とんでもないドスの効いた声を出す有様。
この人は何考えて歌ってるんだ。
と唖然となる。
ヴェルディ 椿姫 Sempre libera
テノール サイミール ピルグ
ランカトーレが日本で人気のある理由は
3.11の時でも来日をキャンセルせずに来てくれて、清教徒を歌ったから。
というのが大きいと思うのだが、それと歌の実力は別物だ。
流石に若い頃のような喉声の高音ではなくなってきたが、
相変わらず低音域は響きが落ちる。
逆に、アルフレードを歌っているピルグが以前の記事にも書いた通り、現代屈指のテノールであることもあって、
響きの質、ポジションの高さなど諸々でランカトーレとの差が明確出てしまっている。
更に言えばこの人、高音を出す時にの表情が明らかにおかしい。
通常の音域を歌っている表情
高音を出している時の表情
ご覧の通り、異常なほど眉間にシワを寄せて高音を出す。
この表情を見るだけで、自然な発声で気持ちよく声を出しているようには到底思えない。
ヴェルディ リゴレット Caro nome
今回来日して歌う予定のジルダ
やたら声が重くなったのに低音が全く鳴っていない。
こういう不自然な声を聴く度に、
ドーピングを疑う記述をしているのが適切かどうかはわからないのだが、
年代別に同じ曲を並べればわかってくることもある。
2008年
2012年
2013年
2008年と2012年は明らかに声が変わっている。
まだ2008年は声に瑞々しさがあるが、2012で中音域が急に重くなった。
更に2013年は高音にも影響が及び始め、
2015年にはとうとうカデンツァで最高音を出せずに回避した。
2008年と2015年の5:00~を聴き比べればその違いは明らか。
まだ30代で、ここまで急速に衰えるということは考えにくいので、
他の要因を疑うしかない。というのが私の結論になる。
ベッリーニ ノルマ Perle Nere
かつてランカトーレの持ち味だった繊細で瑞々しい高音は影も形もなく、
ただ叫んでいるだけで歌の様相すらなしていない。
軽い声のソプラノが道を決定的に踏み外す役となり易いのが、
ヴィオレッタとノルマだと個人的には考えているが、
ランカトーレは見事に合致した。
以上が分析結果である。
今のランカトーレに大枚を払ってジルダ役を聴くに値するか、
今一度オペラファンは考えた方が良い。
残念だが、ここまで声が崩れてしまってはもう良くなることはないだろう。
19歳でザルツブルク音楽祭に出たって、40代前半でまともな声が出なくなっては意味がない。
そして、忘れてはならないのは、このような歌を支持した聴衆がいるから彼女は舞台に立ち続けているのである。
どこかで引き返して勉強し直す機会があれば、
本来の持っている楽器を生かした歌唱を身に着けて、
50歳、60歳・・・と声を保てたかもしれないのだ。
間違ったもの喝采を送るということが、
実はその歌手に残酷な未来を与えることになりかねないと心得えなければならない。
日本でのリサイタル
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