新旧歌唱比較シリーズVol.6  【ロッシーニテノール編】 ロッシーニテノールが実はベルカントへの反逆だった!?

いとうまゆのベビーサイン(テキスト+DVD)

 

新旧歌唱比較シリーズの6回目はロッシーニテノール編です。
とは言っても、戦前にはロッシーニテノールという声種そのものの概念があまりなかったので、
この言葉が定着したのは戦後、特にRockwell Blake (1951年~)という歌手が出てからではないかと思います。

 

 

 

Tito Schipa(1889年~1969年) イタリア
セビリャの理髪師 Ecco ridente in cielo

 

 

 

 

 

Giacomo Lauri-Volpi (1892年~1972年) イタリア
Se il mio nome

上記2人は、ただロッシーニも歌っている。という程度で、ここで取り扱うべき歌手ではないかもしれませんが、
それでも、ヴェリズモ全盛期に一応歌っていた。という事実だけでも意味はあるでしょう。

 

 

 

 

Cesare Valletti (1922年~2000年) イタリア
湖上の美人 O fiamma soave

現代的なロッシーニテノールの大枠はこのヴァッレッティや、次に紹介するアルヴァ辺りから来ていると思いますが、
勿論ロッシーニが生きていた当時は高音を胸声では出していなかったことが分かっているので、
本当の意味でのロッシーニテノールというのは現代では再現できないでしょうし、
再現した所で高音を全てファルセットに近い声で出すテノールが現代で受けるとは思えない。
そういう意味で、現代私達になじみ深いロッシーニテノールの出発地点が彼等だと言ってしまっても良いのではないかと思っております。

 

 

 

 

Luigi Alva (1927年~) イタリア
チェネレントラ Si, Ritrovarla Io Giuro

 

 

 

 

 

Ugo Benelli (1935年~) イタリア
セビリャの理髪師 Ah il più lieto, il più felice

セビリャの理髪師のアリアで、難しいためにカットして全曲が上演されることが一般的だったアリアで、
とりあえず歌ってる録音のある古い歌手がこの人

 

 

 

 

 

Ernesto Palacio (1946年~) ペルー
アルジェのイタリア女 Languir per una bella

 

 

 

ここからいよいよ高音に強いロッシーニテノールが席巻していきます。
ヴァッレッティは別として、スキーパやアルヴァは決して高音に強い歌手ではなく、
本当に軽く柔らかい声、レッジェーロの典型のような声であったことは注目すべきでしょう。
なぜならば、ここまで紹介してきた歌手がイタリア人だったからです。
本格的にロッシーニテノール全盛期(ロッシーニルネサンス)が訪れると、
パタリとイタリア人歌手が姿を消し、ロッシーニテノールとして檜舞台に立っているのは
一部の例外を除いてほぼイタリア以外の国のテノールなのです。
ロッシーニルネサンスについてはコチラの記事などが参考になると思います。

 

 

 

 

Francisco Araiza(1950年~) メキシコ
グローリアミサ Qui tollis

アライサは不思議な声で、ファルセットと実声の境目がない歌手です。
ティンブロ(響きの強い芯のようなもの)がない声で、イタリア的なカラっとした響きとは全く違うので、
ドイツ物の方が声質的に向いており、個人的にはオペラよりリートの方が優れた演奏をする歌手だと思っていますが、
ロッシーニに限って言えば超絶技巧と超高音を楽々こなせる歌手として、
現代的イメージのロッシーニテノールを形作った歌手であることは間違えありません。

 

 

 


 

 

Rockwell Blake (1951年~) 米国
セビリャの理髪師 Cessa di piu resistere

 

 

 

副題に付けたちょっと過激なタイトル「ベルカントへの反逆」ですが、
ブレイクの歌唱は決定的だと思います。
超絶技巧と高音という音をハメるための歌唱技術であって、
美しい歌(ベルカント)を歌うための発声とは目的が変わってしまった瞬間と言えば良いのでしょうか?
その証拠に、軽い声にも関わらず実声とファルセットで明らかに響きが変わり、滑らかな声の転換ができていません。
ベルカントオペラの代表格であるロッシーニ作品のルネサンス(再評価)がベルカントではない歌唱によってなされたというのは皮肉と言えなくもないですね。
ここでいうベルカントの歌唱とは、勿論高音をミックスボイスで出す19世紀の歌唱スタイルのことです。

 

 

 

Chris Merritt(1952年~)米国
セミラーミデ Ah dov’è, dov’è il cimento?

 

 

 

 

 

Bruce Ford(1954年~) カナダ
アルミーダ Non soffriro l’offesa

1950年代生まれのブレイク・フォード・メリットという英語圏がロッシーニテノールの中心的役割を果たしたことで、
レッジェーロの柔らかい声で歌われるはずだったロッシーニ作品は、
スピントで力強い高音を持ちながら超絶技巧をこなせる歌手が歌うものへと変貌しました。
しかし、アライサが現在も舞台に立ち続けているのに比べて、この3人はとっくに檜舞台から退いている。
これが意味することは容易に想像がつくと思いますが、やはり発声的な負荷を強いる歌唱がロッシーニルネサンスとしてもてはやされたという現実です。
声楽教師にも時々見かけるのですが、アジリタの練習のためにロッシーニは発声に良いから、
とそこまで軽くない声のメゾが無理やり歌わされるケースがあるのですが、コロがる技術があって高音が出るから発声が良いのではありません。
それがこの比較でお分かり頂けるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

Gregory Kunde (1954年~) 米国
セミラーミデ La speranza più soave

この人は現在を代表ドラマティックテノールになってしまいましたが、
太い声で超高音まで楽々出せるかなり特殊な歌手だと言えるでしょう。
声質だけ見れば硬いんですが、この歌唱で現代まで第一線で活躍し続けられると言うのは、
持ってる楽器が特別優れているとしか言えません。

 

 

 

 

 

William Matteuzzi (1957年~) イタリア
セビリャの理髪師 Cessa di piu resistere

ロッシーニテノールと言った時、近代の歌手で最も19世紀当時の歌唱に近いと考えられる演奏をしているのはこのマッテウッツィではないかと思います。
問題は、マッテウッツィとメリットが一括りにロッシーニテノールと表現されることです。
はっきり言って全く違う歌唱であることは誰の耳にも明らかでしょう。

 

 

 

 

 

Ramon Vargas(1960年~) メキシコ
絹のはしご Vedro qual sommo incanto

ヴァルガスも若い時ロッシーニを得意としているテノールでした。
特にこの絹のはしごのアリアは理想的な演奏です。

 

 

 

 

Antonino Siragusa (1964年~) イタリア
アルジェのイタリア女 L’italiana in Algeri

 

 

 

 

Juan Diego Flórez (1973年~) ペルー
チェネレントラ Ah! questa bella incognita

現在最も有名なロッシーニテノールであり、この人が今の聴衆にはロッシーニテノールの基準になっている感すらあるかもしれません。
エルネスト パラシオの弟子だけあって歌唱スタイルがよく似ています。

 

 

 

 

Maxim Mironov(1981年~) ロシア
チェネレントラ Si, Ritrovarla Io Giuro

 

 

いかがでしょうか?
ここまで聴いて頂ければ、
「ロッシーニ」=「ベルカントオペラの作曲家」ですが、
「ロッシーニテノール」=「ベルカントの概念とは無関係」
ということがはっきりとわかります。
要するに、どんな歌唱スタイルであろうとも、超絶技巧ができて高音が出ればロッシーニテノールに当てはまるので、
この呼び方は声種とも全く無関係です。

今でこそ軽いテノールがワーグナーを歌ってもヘルデンテノールと呼ばれているようですが、
少なくとも、ヴェルディバリトンやヘルデンテノールという言葉は、
ヴェルディやワーグナーが求めたドラマを表現できる声を指して言うべきなので、
そう考えるとある程度声質は限定されるのです。

このような視点でロッシーニテノールについて考えていると、
ロッシーニルネサンスという言葉は、本質的にロッシーニの音楽をあるべき姿で復活させようという動きでもなく、
再発見などと大げさに言うべきことでもなく、
なんてことはない、ただ超絶技巧だけに焦点が当てられた薄っぺらいものなのではないか?
とさへ私には思えてならないのです。

そこには1950年代に生まれた英語圏の歌手が主導権を握った。
ということとも関係があるかもしれませんが、
少なくとも、ロッシーニルネサンスという言葉には、ベルカントもイタリアも全く関係ないことが、
この記事で証明できたのではないかと思います。

最後に、イタリア人歌手の発声が今日かなり崩れてきているのですが、
ロッシーニを歌うテノールだけは他国の歌手と明らかに一線を画している。
ここにイタリア人のロッシーニ演奏に対するプライドを見た気がします。

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