2019/11/30
中村恵理 ソプラノリサイタル (評論)
中田義直:わらい
小林秀雄:落葉松
”墓場にて”
”憩え、わが魂”
”解き放たれて”
”悪いお天気”
プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』より“ある晴れた日に”
Rシュトラウス:”献呈”
その評論を書こうと思うのですが・・・、
中でも、今回歌われたLet My Song Fill Your Heart(私の歌であなたの心をいっぱいに)が、当時有名だったソプラノ歌手、アイリーン ファレルに歌われたことによって有名になったのだそうです。
因みに、ファレルが歌っているこの曲の音源はYOUTUBEにもありました。
プログラムの補足はこのくらいにして、早速評論に移りたいと思います。
その時は主役ではなかったのでじっくり生で聴くのは今日が初めてでした。
映像でもオペラアリアしか聴いたことがなかったので、歌曲をどう歌うのかは個人的に注目しているところでした。
日本歌曲を最初に演奏し、ブラームス、シュトラウスと続くのですが、
なぜその選曲?と感じる部分が随所にありました。
何を歌っているのかわからないまま気づけば終わった感じでした。
なにが「わらい」なのか聞いていてもあまり想像できませんでした。
ソプラノやテノールがこの曲を歌うと結構グダグダになるイメージなのです。
中村氏は、低音があまり鳴らないのですが、それでも響きを出来る限り柔らかく作り、ピアノ伴奏とのバランスを上手く整えて、1番、2番・・・と同じことを繰り返さないようにし、言葉も雰囲気もよく計算して演奏されていたとは思うのですが、そこまで出来ていればこそ高音と低音での声の質が違いが際立ってしまったように感じました。
もっと高音でも柔らかい響きが使えないと日本歌曲を上手く聴かせるのは難しいかもしれません。
どうもしっくりこない。
特にこの曲はテンポも速めな上にレガートで歌えていない。
参考までにこんな曲
このような歌手でも、最初の歌詞
Wie Melodien zieht es Mir leise durch den Sinn, |
中村恵理氏の高音は強く金属的で、この曲には残念ながら向いていないと感じてしまいました。
もう少し低音が鳴れば調整を下げて歌うのはありかもしれませんが、
音色的に相性が悪かったのではないかと思わずにはいられませんでした。
こちらは1曲目とは逆に冷たく厳しい高音の響きが悲壮感をより助長するのに役立っており、
レガートについても、息も絶え絶えな感じが出ていて、この曲では綺麗なレガートで歌われないことが良い効果になっていたように感じました。
この曲も参考までに音源をアップします。
こちらの音源は疲れ切って弱りはてたような演奏ですが、
本日の中村氏はもっと劇的で、
一番最後の「Komm,o komme bald!」(来て、おぉ、直ぐに来て!)
というセリフの切迫感は中々のものでした。
ブラームスではこの曲が一番良かったですね。
「kirche 教会」、「hof 中庭」ですが、「Kirchhof」で墓地、霊園といった意味になります。
恥ずかしながら原語のタイトルを見て、なぜ「墓場にて」と訳されているのか疑問でした。
この曲も参考までに音源を貼っておきます。
低音はピアノの表現というは中村氏の声には比較的歌い易い曲だったのではないかと推察されます。
最後のフレーズ
Wie sturmestot die Särge schlummerten, Auf allen Gräbern taute still: Genesen. |
(嵐が静まるように棺たちはまどろみ、墓の上に静かに霜が溶けていた:創生。と)
こういうフレーズは深い中低音の響きを持っていないと中々表現しきれません。
今後更に歳を重ねて、中村氏がこういう部分をどう歌えるようになるかが更なる成長には欠かせないのではないかと思います。
◆Rシュトラウスの歌曲
”Ruhe meine seele”(憩え わが魂)
シュトラウスの中でも比較的歌われる機会の多い曲ですが、
曲としてはシュトラウスにはあまりない厳しい音楽なので、
結果としてブラームスの2・3曲目のような表現と似たようなところがあるのではないかと思います。
なので、中村氏の声、表現ともブラームスから同じような流れで、
気持ちが乗った状態で歌えていたように感じました。
この曲はピアノ伴奏がほぼ和音を鳴らすだけなので、
音域の低い部分が多くても、
「伴奏にかき消されて聴こえない。」
ということがないので、
そういう意味でも、中村氏がどう歌いたいかが一番伝わる曲だったかもしれません。
”Befreit”(解き放たれて)
個人的に一番粗が目立ったと感じたのがこの曲でした。
詳しく書き過ぎると読者の方には引かれてしまいそうですが、
中村氏の課題がよく分かった曲でもあるので、この曲は細かく書かせて頂きます。
【歌詞】
Du wirst nicht weinen. Leise Wirst du lächeln und wie zur Reise Geb’ ich dir Blick und Kuß zurück. Unsre lieben vier Wände,du hast sie bereitet, Ich habe sie dir zur Welt geweitet; O Glück!Dann wirst du heiß meine Hände fassen Und wirst mir deine Seele lassen, Läßt unsern Kindern mich zurück. Du schenktest mir dein ganzes Leben, Ich will es ihnen wieder geben; O Glück!Es wird sehr bald sein,wir wissen’s beide, Wir haben einander befreit vom Leide, So gab’ ich dich der Welt zurück! Dann wirst du mir nur noch im Traum erscheinen Und mich segnen und mit mir weinen; O Glück! |
【日本語訳】
お前は泣いたりしないだろう、穏やかに、穏やかに 微笑むだろう、そして旅立つ時のように 私もお返しの眼差しとくちづけを贈ろう 私たちの愛しいこの部屋は、お前が整えたもの 私はこれをお前のため 世界へと広げてきたのだ ああ 幸せよ!それからお前は熱く私の手を取り そして私にお前の魂をゆだねてゆくのだ 子供たちのために私を残してゆく お前が私にすべての命をくれたのだから 私もいずれ命を子供たちにゆだねよう ああ 幸せよ!別れはもう間もなくだ、私たちふたりが分かっているように だがお互いに悲しみからは解き放たれている だからこそ私はお前を世界へと返すのだ それでもお前は なおも私の夢の中に現れて 私を祝福し そして私と一緒に涙を流すのだ ああ 幸せよ! |
参考演奏
Adrianne Pieczonka
頭から順に気になった部分を列挙していきます。
●最初の歌詞「Du wirst nicht weinen」の「weinen」でポルタメントを掛けている。
●「Leise」この言葉を2回繰り返すのに、言い直さずに歌っていた。
「Leise,Leise Wirst du lächeln・・・」という歌詞なので、ライゼライゼと歌うのはおかしい。
●「Wirst du lächeln 」の「 lächeln」で跳躍するところ、
「du」と「lä」で完全に響きが分離してしまっていた。
●「Unsre lieben vier Wände」の「Wände」に変なアクセントが付いてしまっていた。
●「zur Welt geweitet」
「zur」からの跳躍で「we」の音が全く違う響きになり、
その後の「ge」「wei」「tet」と同じ音で歌う部分が全部音色がバラバラになっていた。
ここはちょうどパッサージョの音(五線の一番上のFis)な上に
横に開き易い母音”e”・”e”・”a”・”e”とくるので、
跳躍前の「zur」と同じ音質で「Welt geweitet」を出せなければ失敗確定みたいな部分です。
●「Und wirst mir deine Seele lassen」の「deine」でやたらテンポが走り、
「Seele 」の高音で喉が上がり「lassen」の”la”で響きが完全に落ちた。
●「Ich will es ihnen wieder geben」テンポが走って声がヒステリックになり、
最高音の「wieder geben」はもはや何言っているのか聴き取り不可能
●「wir wissen’s beide」の「beide」に激しいアクセントとポルタメント
●「Wir haben einander befreit vom Leide」では「befreit」という曲のタイトルにもなっている言葉が一番弱い。
この単語に限らず”r”では巻き舌をしたくないのかもしれませんが、舞台語発音としては必要だと思います。
これはドイツでしっかりリート叩き込んできた人がそうしてるので、
現代は口語に寄せて巻き舌しない方がスマート!
なんていう考え方は正しくない。というのが私の意見です。実際言葉が飛ばないので・・・。
※舞台語発音についてはWikiにも説明があるので、興味がある方はご覧になってみてください。
●「und mit mir weinen」アッチェレ掛け過ぎて何言ってるかわからない。
●一番最後の「O Glück!」
長く伸ばしているうちに母音の響きが変わっていた。
自分がかなり勉強した曲だけに、余計に気になる部分が耳についてしまったのはあるのですが、
それを抜きにしても、この曲は粗さが目立った印象でした。
特に致命的だと思ったのは、中村氏はブレスが短いことが露呈したこと。
本来一息で歌わないといけない部分で何カ所かブレスを入れているのが見られましたし、
それはまだ仕方ないにしても、ブレスが持たないからといって、極端にテンポを速くして帳尻合わせをすれば、必然的に曲想を壊すことになってしまいます。
アマチュアならまだしも、世界的に活躍されている歌手がそうしないと歌えないのであれば、演奏会で選ぶべきではないでしょう。
”schlechtes wetter”(悪いお天気)
低音をどう処理するのか注目していたところ、
随分胸声に近いところを多用し、それでいて下品にならずに上手く対応していたと思います。
レガートは苦手なようですが、
こういう早口で跳躍の激しい曲は、
ズリ上げたり、音のアタックが弱くて中を膨らませるようなことが全くなくて、
難しい曲のはずですが、それこそBefreitに比べると遥かに歌い易そうでした。
この曲は良い演奏だったと思います。
参考演奏
Christiane Karg
私もこの作曲家は知りませんでした。
一番英語のこの曲が自然に歌えていたような気がしました。
しかも、今までが重い内容の曲が多かったこともあるのか、
この曲では肩の力が抜けたように声の硬さも前半より取れていたように聴こえました。
英語は声楽的には歌い難い原語と言われているのですが、中村氏は英語の発音と声の相性が良いのでしょうか?
この曲はよかったですね。
雰囲気は出ていたのですが、やっぱりキモはレガートの甘さ。
しっとりした中でも中低音で喋るフレーズがあるので、
太い声である必要はありませんが、しっかり響きが前にきていないといけない。
高音だけマジになって、他は雰囲気で歌ってるような感じに聴こえてしまった。
チャールズの曲って、SP時代の米国人歌手が意外と歌ってるものなんですね。
チャールズの「私の歌であなたの心をいっぱいに」もウィンナーワルツのような曲でしたし、
実は中村恵理という歌手はオペラセリアよりオペレッタの方が彼女の表現にはピッタリ合うのではないかと思ってしまいます。
表現は、Rシュトラウスの「悪いお天気」のような曲を上手く歌えるあたり、
クルクル表情の変わる、軽い言い方ですがノリの良い曲の方が、
切々と苦悩を訴えたり、一途に愛を歌うより合っているのではないかと思いました。
実際、こういう歌を歌っている方が声もノビるんですよね~。
客席の反応が一番良かったのは、恐らくこの曲だったと思います。
聴衆の反応が他の曲とは違うのは当然ですから、それを考えれば、
今回のプログラムで聴衆全体に最も受けたのはこの曲だったんじゃないでしょうか。
なぜそれより重い曲を3つ並べたのかちょっと理解できませんでした。
むしろカバレッタではプラスに作用するので、
はっきり言って選曲ミスです。
プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』より“un bel di vedremo”(ある晴れた日に)
表現としては個人的に面白いと思った部分もありました。
途中では多少声を作って、わざと幼い声を出すという訳ではないのですが、
深刻になり過ぎず、無垢な感じを実に巧く表していました。
ただ、この声そのものを変えて表現してしまうと、
再現部に戻る部分「 per non morire al primo incontro」の歌詞で性格が豹変したように聴こえてしまう。
なので、中村氏の表現は面白かったのですが、キャラクターとしてアリア一曲の中でも統一されていないものになってしまっていたように感じました。
なので、一曲を通してキャラクターにブレが出ない表現を見つけて欲しいと思います。
アンコールについては特に詳しく書きませんが、
やっぱりオペレッタだと遊び心があって、声にもオペラセリアのアリアと比較して柔軟な表現ができているように感じました。
そんな訳で、アンコールで歌ったジュディッタも上手く会場を乗せて、中々色気のある語り口で本編のプログラムでは聴けなかった良さが出ていたように感じました。
<声について>
ここでは中村恵理氏の声について
良い部分と改善が必要と感じた部分もまとめてみたいと思います。
◆良い部分
音の立ち上がりの良さ
音域に関わらず、フレーズの頭の音がしっかりテンポ通りに決まる。
これは大切なことなんですが、とても難しいことです。
一流歌劇場で歌っている歌手でも、高音を一々ズリ上げないと出せなかったり、
リズムに乗り遅れたりする歌手は珍しくありませんから、
その辺りがしっかりできるのは素晴らしいことです。
高音のポジションが安定している
どんな曲を歌ってもブレずに良いポジションで高音を出すことが出来る。
これは一流歌手なら誰でも出来ているようで、実はそうではないのです。
と言うのは、言語によって特徴が違うので、
例えば今回のプログラムなら、日本語、英語、ドイツ語、イタリア語をそれぞれしっかり安定したポジションにハメることができていたことは見事でした。
胸声を柔軟に使える
ソプラノ歌手が低音を胸声に落として歌うことはあまり好まれないことが多いのですが、
完全に胸に落とさずに、曲に応じて上手い具合に通常の歌声と胸声を混ぜることができるのは表現の幅が広がるのでとても良いと思います。
◆改善が必要と感じた部分
発音が奥
響きには深さが必要ですが、発音は常に前でなければなりません。
誤解のないように書いておくと、中村恵理氏は発音に関しての意識がないという訳ではなく、
それどころか逆に大変考えてされていると感じます。
だからこそ日本語がはっきりしなかったことは大きな課題と言えると思います。
具体的に言えば
母音が全て暗い = 発音のポイントが奥 = 母音の浅く明るい日本語が不明確になる。
ということだと思います。
ではなぜ発音が奥になるかですが、ここが一番難しい部分でしょう。
母音を太く歌い過ぎる
この問題を解決することが大事なのかと思います。
2017年の映像がYOUTUBEにあるので、今とは多少違いますが参考にはなるので、
こちらでちょっと解説したいと思います。
Tu che di gel sei cinta
ILONA TOKODY
トコディはハンガリー語歌唱なので単純な比較はできませんが、
今回は中村恵理氏の母音の太さがどう問題なのかを明確にするために、
細い響きで歌っている歌手を比較の対象として選びました。
いかがでしょうか。
最高音は、中村氏もトコディに負けない素晴らしい高さと奥行のある響きで歌えているのですが、問題は中音域です。
中村氏はトコディより遥かに太い声で歌っていて、高音に比べて響いているポジションも落ちています。
この現象は先日の記事で書いたテノールのリッカルド マッシと似たものを感じます。
歌っている映像を見ても、喉の奥を無理やり深く押し下げて空間を作っているように見えるのは気のせいでしょうか?
少なくともトコディは歌っている間に全然喉が動きません。
◆参考記事
Riccardo Massiは世界の一流歌劇場を席巻するほどのテノールなのか?
結局、最初に書いた発音のポイントが奥過ぎることも、
母音が全体的に暗いことも、曲目別の評論でも度々書いたレガートができないことも、
更にはブレスが短くなることも、高音でピアニッシモが出来ないことも、
大抵の原因はここにあると私は考えています。
なので、今の大砲の球のような声ではなく、もっと薄い面の響きを手に入れること。
これが彼女にとっと一番重要なことだと私は確信しています。
一部の子音の扱いについて
主にドイツ語ですが、
音の頭の声のアタックは強いのですが、二重子音だとそれがあまり聴こえない。
と言えば良いのか、発音のタイミングが遅いのか・・・破擦音は少なくとも全然聴こえませんでした。
後、語尾の”t””k”は良いのですが、例えば”k”が頭に来ると立たない。
そして語尾の”n”が一部のイタリア人歌手みたく”ヌ”になるのは、個人的には気になります。
場合によっては、わざと強調するのにこういう表現をすることはあると思いますが、ちょっと頻度が多かったかなと感じました。
その割に語尾の”m”はやらないんですよね。
「Komm」なんかは「ム」という語尾が聴こえても良かったと思うし・・・(細かくてすいません)
それと繰り返しになりますが、Befreitの所で書いた”r”の処理ですね。
<全体を通して>
プログラムはバラエティーに富んでいて、
特に前半はアカデミックな歌曲を選びながらも聴衆を飽きさない曲のバランスで、
後半はマイナーな作品と有名なアリアを上手く組み合わせて、特に「こうもり」は両社の橋渡し的作品として上手く機能していると思いました。
アンコールはジュディッタは良かったですが、献呈はお決まりかな。
なんでアンコールでRシュトラウスの歌曲歌う人が多いんでしょうか?
特に「明日」と「献呈」が来ると、
またか~っ
となってしまう自分がいる。。。
それはおいといて、
やっぱり声が太過ぎて硬いがために、表現には色々工夫があっても
音色に柔軟性がなく、高音ではきっちりポジションにハマる(ハメる)分、
無理やりハメている感があり、何の母音で高音を出しているのかが分からないために、
結局音域によって発音が不明瞭になってしまうのは勿体ないと思いました。
とは言え、まだまだレパートリーを模索しているところでもあるようですし、
徐々に歳を重ねるに連れて声の変化もあるのでしょうから、とにかく声に合うレパートリーを今度は聴きたいと思います。
私も川口まで遠征して来ました。私などは演奏に感激しっぱなしだったのですが、Yuyaさんの冷静な批評を拝見して、贔屓の引き倒しにならないようにと自戒した次第です。それにしてもあのプログラムは、リリアホールが作ったのでしょうが、余りにも愛想がなさ過ぎますね。演奏者に対しても失礼だと思います。そんなプログラムを演奏中にパラパラ音をたてながら後生大事に眺めている人にも閉口しますが。
のりしん様
川口にいらしてたんですね。
全然お好きな演奏者を贔屓にするのは自然なことなので良いと思いますよ!
私は形なりにも評論と題しているからには徹頭徹尾フェアな立場で記事を書きたいと思っていますし、
好きな演奏家や、それこそ友人知人の演奏を褒めちぎっては読者の方の信頼を失ってしまいますからね。
それにしても、本当にあのプログラムの酷さには頭に来ました。
高校の学際でももっとマシなの作りますよ!
それに、記事にも書きましたが、Eチャールズなんて作曲家、普通知らないですよね!?
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