佐藤優子ソプラノ・リサイタル (評論)
日時: 2020年1月10日(金) 19:00開演
会場: 紀尾井ホール
一部
出演:
佐藤優子(/ソプラノ)
服部容子(ピアノ)
G:Rossini
la promessa
la fioraia fiorentina
V:Bellini
malinconia
per pieta bell’idol mio
G:Donizetti
la zingara
una lacrima
G:Verdi
perduta ho la pace
stornello
二部
出演:
佐藤優子(ルチア*/ソプラノ)
古橋郷平(エドガルド*/テノール・賛助出演)
上江隼人(エンリーコ*/バリトン・賛助出演)
服部容子(ピアノ)
G:Donizetti
『Lucia di lammermoor』(ハイライト)
Regnava nel silenzio
Lucia perdona.. Sulla tomba.. Qui di sposa.. Verranno a te
Apressati, Lucia…Soffriva nel pianto
Orrida è questa notte
Il Dolce Suono
今日はイタリア留学中のソプラノ、佐藤優子氏と、
同じくイタリアで研鑽を積んだ2人の歌手が助演で出演されたリサイタルへ行ってきましたので、そちらの評論を書こうと思います。
まず参考までにお三方の過去の演奏を紹介しておきます。
佐藤優子
古橋郷平
上江隼人
https://www.youtube.com/watch?v=vCDJ7tT7Kbk
【評論】
G:Rossini
la promessa
la fioraia fiorentina
前半はベルカントものの作曲家の歌曲でした。
la promessa「約束」という曲はイタリア歌曲の代表的な作品で、
カンタービレで歌う技術を磨くのに役立つ曲です。
一方のla fioraia fiorentina「フィレンツェの花売り娘」は言葉リズム感、芝居がかった表現が必要な曲で全く性格が違います。
佐藤氏の歌唱は、旋律を美しく歌うことはできますし、弱音の表現も無難にこなせていて、高い技術をもっていることをうかがい知ることができる演奏でした。
ただ、2曲の性格の歌い分ということになると、まだまだ突き詰める必要があると感じました。
佐藤氏はイタリア人の旦那さんがいらっしゃることからも、イタリア語がかなり出来るのではないかと思いますが、それが「フィレンツェの花売り娘」を聴いても言葉のアクセントに準じたリズム感、音色で歌うことが出来ていたとは言い難い演奏でした。
V:Bellini
malinconia
per pieta bell’idol mio
こちらのベッリーニの2曲は声楽を学び始めると必ずと言って良いほど歌うことになる曲で、音大の声楽科を出ていたらまず知ってる作品。
こういうベッリーニの歌曲や、イタリア古典歌曲といった学生が歌うイメージの強い曲ほどプロの実力が試されます。
特にコロラトゥーラを得意とする歌手は、技巧や高音で聴かせることができないので、純粋に声の良さ、歌の上手さがわかるという訳です。
malinconiaはそこそこ早口で、確かに切迫した歌唱を求める指示のある曲ではありますが、レガートを失ってはいけません。
一番気になったのは、真っすぐに歌うことができておらず、伸ばす音は歌い始めが弱く、後から膨らませるような声の出し方になり、短い音は点で音が聞こえてきてしまったこと。
文字だけでは伝わり難いので、他の方の演奏でちょっと解説してみます。
歌い出してすぐ30秒辺りの「ai piacer veri 」の”ve”、
続く「chiesi agli Dei」の”de”で頭の音が弱く後から膨らませるように歌うため、ズリ上げてはいなくても、そういう歌い方をしているように聴こえてしまって音楽の流れと合わない。
続く50秒~「né mai quel fonte co’ desir miei,」では、”né ”と” fo”が強くアクセントが付いて聴こえて、”miei”は前述のようにオンタイムで言葉がハマッていない。
こんな感じなので、どうしてもカクカクした歌い方に聴こえてしまってレガートにはならない訳ですね。
これは続くper pieta bell’idol mio「美しい偶像よ」も同じことが言えて、
出だしの「pieta」「ta」がが真っすぐに歌えない。
全体的にはとても丁寧に歌えていたのですが、サラっと歌えば良い所を変に味付けし過ぎると言うか、シンプルな歌は旋律美を最大限に生かすには余計なことをしないことだと思うんですが、これは主観的な好みの問題もありますので評価が分かれるところかもしれません。
G:Donizetti
la zingara
una lacrima
ドニゼッティの歌曲はロッシーニやベッリーニに比べると歌われる頻度は少ない気がします。
una lacrima「一しずくの涙」は個人的にはテノールが歌うイメージが強く、あまりソプラノが歌たのは聴いたことがありませんでした。
一方のla zingara「ジプシー娘」は今回初めて聴いたかもしれません。
La Zingara
歌曲ではありますが、アリアに劣らない華やかと技巧を要求される曲ということで、
こういった曲は彼女の得意とするところなのだと思います。
高音のアタックの強さと響きの安定感は流石といったところ。
ただ、この曲は聴いての通り楽しい歌なのですが、佐藤氏が歌うとどこか悲劇的な曲に聴こえてしまった。
ここでも、続くuna lacrimaとは対極の表現をして欲しいところだったのですが、
恋歌と神に祈りを奉げる歌が同じような音色、歌い回しで歌われる私としては違和感がある。
G:Verdi
perduta ho la pace
stornello
perduta ho la pace「私は平穏を失い」という曲は
ゲーテのファウストの一節、シューベルトのgretchen am spinnrade「糸を紡ぐグレートヒェン」のイタリア語の歌詞にヴェルディが曲を付けたものとして有名。
ただこの曲はあまり軽い声質の歌手が歌うものではなく、劇的な中音域の表現ができないとあまり説得力がない。
佐藤氏はやっぱり高音が売りな歌手なので、そういう意味でも声には合っていなかった印象を受けました。
強い声を出そうとするあまり破綻するということはありませんでしたが、声の硬くなり言葉と旋律線を美しく描くことが出来ていませんでした。
一方のstornelloは、今回歌った中で一番表現や音色という面では変化があったのですが、ピアノが重い。
ちょっとピアノ伴奏に注目して以下の演奏を聴いてみてください。
上がアンジェラ・ゲオルギュー、下がイローナ・トコディの演奏。
トコディの方が響きの高さがあって軽やかな歌唱なのですが、演奏としてはゲオリギューの方が良く聴こえる。
こういう単純な伴奏なようで微妙に言葉とのやり取りや微妙な間が求められる曲は、歌手の上手さ以上に、もしかしたら伴奏の歌わせ方の方が大事かもしれません。
今回ピアノを弾いた服部氏は日本を代表する伴奏ピアニストですが、歌曲よりはオペラでこそ本領が発揮されるタイプであることは間違えありません。
今回も後半のプログラムのルチアのハイライトでも譜めくりの方を使わず、自分で譜面めくりながらオーケストラの音のイメージを的確に表現していました。
余談ですが、伴奏ピアニストと言っても、コレペティトゥーアとドイツリートなんかの伴奏は別物と言っても良いのではないかと思うくらい求められる役割が違うんですよね。
『Lucia di lammermoor』(ハイライト)
Regnava nel silenzio
二部はルチアの歌う場面を一部分を除いて全部歌う中で、
重唱に絡むエドガルド役とエンリーコ役に古橋氏と上江氏が参加して行われました。
アリアに関しては前半のプログラムとあまり書けることは変わらないのですが、
確かに上手く歌えているんですよ。
ただ、どうしても技巧を聴かせてナンボといった演奏になってしまう。
例えば出だしのA-F-E-E-D-C-C-B-Aと動く旋律が1音1音歌ってるようで、楽譜に書かれたようなフレージングでは歌えていない訳です。
参考までに楽譜がわかる動画を貼っておきます。
ここで演奏している方も出来てないのでちょうど良い比較になりますが、
ちゃんとレガートで歌われるとこうなります。
Luciana Serrea
セッラと比較して上手い下手を言っているのではなく、
佐藤氏は正しい音では歌えていても、フレージングという部分ではまだまだで、
どこに向かってその旋律が終息するのかが歌唱からは把握することができず、書かれた音を正確に歌っている以上の演奏にはなっていないように感じました。
Lucia perdona.. Sulla tomba.. Qui di sposa.. Verranno a te
エドガルドとルチアの二重唱です。
重唱になると気持ちが乗ってくるのか、佐藤氏の表現に柔らかさが出てきた印象を受けました。
一方の古橋氏はかなり押しの強い歌い方、歌い出しからQui di sposaまでは力強い歌唱を聴かせていたのですが、「Verranno a te」に入ってからは息切れしたのか、高音がことごとく出ず。
それはしょうがない部分もあるにしても、個人的に残念だったのは、
「Verranno a te sull’aure」の旋律はルチアとエドガルドが歌った後二人で歌うんですが、これが全部同じように歌われるのがなんとも面白くない。
最初はエドガルドの怨念のような言葉が続く訳ですが、Qui di sposa「ここで花嫁になってくれ」で愛の二重唱に入る訳です。
そして
Verranno a te sull’aure I miei sospiri ardenti
「私達の熱いため息が、そよ風となってあなたの元に運ばれるでしょう」
という一番甘い部分に入るのですから、呼吸や言葉の扱い方が変わるはずなのです。
単純にディナーミクがずっとフォルテで歌われていたことも気になりましたが、テンポもどんどんアッチェレ掛ける上に、特にエドガルドは怒りの感情が強かった前半は急き立てるような押しの強い歌唱でも良いかもしれませんが、後半は真逆の表現にならなければ変です。
今回の演奏で歌詞の内容がわからなければ、愛の二重唱だとは私は思えなかったでしょう。
Apressati, Lucia…Soffriva nel pianto
エンリーコとルチアの二重唱。
上江氏がこう言っては失礼ながら悪役っぽさが全面にでていることもあって、
ルチアの悲劇性が際立つ重唱となりました。
今の私達の感覚ですと、エンリーコは妹に望まぬ結婚を強いる悪い兄貴に見えるかもしれませんが、政略結婚なんて当たり前に行われていた(今でも富裕層はそうかもしれませんが)時代としては、エンリーコが悪役と言えるのかは私的には疑問だったりします。
それは置いといて、
今回佐藤氏が一番良かったのはこの演奏だったかもしれません。
元々暗めの音色で硬質な声なので、
喜怒哀楽で言えば、哀の表現に一番親和性があると言えば良いのでしょうか。
己の運命を嘆ような脆さでも、だまって耐え忍ぶ健気さでもなく、立ち向かう芯の強さがあればこそ最後の狂乱は説得力があるというもの。
上江氏の歌唱は、堂々たるもので最後の高音Asも上に上げてしっかり決めていました。
ただ、こちらも古橋氏同様押しの一手といった感じで、表現や音色に柔軟性は感じられませんでした。
Orrida è questa notte
エドガルドとエンリーコの二重唱
敵対する二人の重唱なので熱量が上がるのは当然で、服部氏のピアノも上手く火に油を注いでおられました(笑)
古橋氏もここでは高音がしっかり決まり、上江氏も前述の通り高音に強いために立派な声の共演となっていました。
でも緩急なしのオールストレート勝負みたいな歌唱は、野球漫画なら夢があるかもしれませんが、歌唱芸術の世界ではどうでしょうか?
力勝負だと韓国人とか欧米人には結局勝てないんですよね。
一流歌手の演奏は、こういう男くさい重唱でもしっかり緩急があります。
Il Dolce Suono
まず佐藤氏はどういう気持ちでこの曲を歌ったのかがよくわからなかったんですよね。
と言うのは、哀しみを通り越し現実とは違う世界で恍惚に浸っているはずなのですが、演奏には常に悲劇性が付きまとっていました。
要するに、エンリーコとの二重唱と同じなんですよね。
目の前にエドガルドがいるかのような演奏をして欲しいところなのですが、逆に全てから見放された暗闇の中で孤独だけがみえてしまった印象です。
Edgardoという名前に全然特別な意味が宿っておらず、
「Oh, gioia che si sente, e non si dice! 」(おぉ 言葉にできない程の幸せを感じるわ)
といった言葉が他と同じように歌われると、ちょっと違うかな?と思う訳ですね。
こういう部分で高音をしっかり柔らかいピアニッシモで表現してこそこの曲は歌えたと言えるのではないかと思います。
確かに佐藤氏の歌唱は見事でした。
この曲に至るまでも随分歌っていながら、この曲でも声に破綻をきたさず、ハイEsも2回しっかり決めましたからね。
ですが、楽譜に書かれた音を完璧に歌うだけではその先は見えてきません。
何より、高音だけが突出して目立ってしまって、ルチアでは案外結構な割合を締める中低音が高音域の引き立て役でしかない状況は何としても改善していかないとドラマを表現することはできません。
結局のところ、上手かったけど何を聴いても同じように聴こえる。
それは佐藤氏に限らず、古橋氏も上江氏も、とにかく音色や言葉の扱いがどこも同じような感じなので、何を歌っても同じに聴こえてしまうという状況は似ていたように思います。
【発声について】
●上江隼人氏
上江氏は実は芸大の1年生だった頃から声を知っているのですが、
昔から持っている声は素晴らしかった。
ですが、声が飛ばない(傍鳴り)だったんですね。
それで今はどうなったのかと思っていたら、やっぱり傍鳴りでした。
声で歌っていて、響きで歌えていないんですよね。
面白いことに、正面を向いて歌っていると声量があるように聴こえるのですが、ちょっとでも横を向くと急に声が遠く聴こえる。
要するに直線的な声で、体格を生かした力の歌唱と言わざるを得ないと思います。
余談ですが、上江氏の父親も国立音大の先生だったヴェルディを得意としていたバリトン歌手で、日本の声楽界ではとても功績のある方でした。
●古橋郷平氏
これは邪推かもしれませんしまったく根拠はありませんが、
声を聴いた限りではステロイドを常用されているのではないかという印象を受けました。
古橋氏の歌唱にはパッサージョがないのですね。
どこを切っても同じ音質で、バリバリ鳴っている感じはあるのですが、響きで歌えている訳ではなく、村上敏明氏などのように喉が鳴っている感じなのですね。
今回歌ったのは2曲だった訳ですが、高音のBでかなりギリギリな感じだったので、オペラ一本主役を歌うことは難しいのではないかと思います。
●佐藤優子氏
佐藤氏の歌唱は大学の頃から知っていますが、学生の頃から超絶技巧と高音が得意でした。
そんな訳で、昔の歌唱を知っている分、そこから上積みがあまり感じられなかったためにかなり辛口な評論になってしまった部分はあるかもしれません。
では、具体的に発声的な良かった所と改善点を幾つか挙げてみることにします。
<良かった点>
響きが上顎から落ちなかったこと。
丁寧に歌っていた。と書いたのはココが大きいです。
特異ではない中低音でも、我慢強く胸に落とさずに響きが落ちないように慎重に歌っている印象を受けました。
声が全く破綻しなかったこと
意外と一流歌手でもどっかで声が割れたり、掠れたりといった事故は起こるものなのですが、今回佐藤氏は男性の二重唱を除いてずっと歌いっぱなしだったにも関わらず、どこにも声に不安定な部分が出なかったことは驚くべきことです。
本当に喉が強い。
無駄なヴィブラートがない
声が揺れないので音程がすっきり聴こえて、これも総じて丁寧な歌唱に聴こえる要因でした。
<改善点>
中低音が鳴らない
これは持っている声が高いから下が鳴らないのではなく、
喉が上がった状態で歌っていて、深さが足りていないからでしょう。
喋っている声の方が歌っている声より深いのがその理由です。
歌っている時の口の開け方を見ていると、あまり口を開けずに歌うので、
響きが落ちることを嫌っているではないかと思うのですが、
口を開けるという行為は、必要な筋肉を引っ張るという作業になるので、そこができていないと深さがでない。
結果として音色が硬くなるんですね。
ただし、口を開ける(空間が広くなる)とブレスコントロールが難しくなるので、
響きが落ちやすくなったり、声が揺れたりしてくる可能性もあることから、
当然ただ口を開ければ解決するというような単純な話ではありません。
ブレスの時に吸気音が聴こえる
これは意識すれば直せると思うのですが、
ブレスをした時に音が鳴るのは喉が開いていないからです。
そして、ブレスの取り方はフレージングに直結しますので、
頻繁に客席までブレスの音が聴こえるような呼吸は良いフレージングを生まないと言えます。
高音のフォルテで喉を押す
高音は得意なのですが、フォルテで喉を押す傾向にあります。
顕著に表れるのは伸ばしている音をクレッシェンドする時で、
急にメタリックな硬い音にかわる瞬間があります。
また、クレッシェンドはできても、フォルテからピアニッシモへフォルテの緊張感を維持したまま音量を絞るということができません。
これは喉を押しているからで、アジリタをやっている時に引っ掛ける音は綺麗にハマるのに伸ばすと音が硬くなってしまう。
よく言われることですが、Messa di voceが出来なければダメなのですね。
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