Cesare Siepi(チェーザレ シエピ)1923~2010はイタリアのバス歌手
この人ほどドン・ジョヴァンニが似合うバスはいないのではないか?
と考え人恐らく世界中に沢山いることでしょう。
なんといっても、細身の長身、イケメン、美声の三拍子そろっている上に、ただ良い声をたれ流すだけではなく、大変技術的にも優れているのだから文句のつけようがありません。
それに加えて映像メディアでしっかり記録が残り、指揮者もフルトヴェングラーときたのだから、ドン・ジョヴァンニと言えばこの映像をまずお勧めしたくなるのは懐古厨でなくても当然の摂理なのではないかとさえ思えてしまいます。
Don Giovanni, Furtwängler, Salzburg 1954
とは言え、普通にシエピの凄さを記事にしたのでは面白くありませんので、
若い頃の歌唱からその変化を診ていければと思います。
1948年(25歳)
ヴェルディ ナブッコ Vieni o Levite
やはや25歳でこの声とは意味不明ですね。
とは言え、確かにまだ青さが残ると言えば良いのか、レガートはまだまだ不十分で、
勿論録音技術の進歩なども影響はしているでしょうが、冒頭で紹介したドン・ジョヴァンニの映像の時のような、深さの中に軽さがあり、強さの中に柔らかさがある声には到底達していません。
とは言え、この演奏が、6年後にはあそこまで進化するのですから恐れ入ります。
1950年(27歳)
ヴェルディ シモン・ボッカネグラ Il lacerato spirito
2年で声のポイントが格段に進化しています。
やや前に響かせ直ぐて硬さが感じられなくもありませんが、
そういう風に作っているのかもしれませんし、
何と言っても低音でも奥に引っ込んだり、発音が曖昧になることなく芯のある響きを維持できていることは技術的な進歩と言えるでしょう。
低音を掘ってはいけない。
というのはまさにこのことで、
薄く鋭い響きを低音でも維持しなければ、言葉が全く飛ばなくなってしまうのですね。
中には、テノールの高音とバスの低音は似たようなところがある。
と主張する人もいて、実際私もその意見には共鳴する部分があります。
具体的に言えば、息が絶対に太くなってはいけないという部分で、
低音になると、どうしても奥に響きが籠って唸り声のよな感じになってしまい勝ちですし、高音は高音で、どうしても息のスピードを速くしようとして、沢山の息を瞬時に吐いてしまう結果として太く芯のない響きになる。
ブレスコントトールの重要性は声楽を勉強するとどんな教師も口にするものですが、実際にちょうどよく楽器がなる息の量を安定して出し続けることを生徒に理解させられる人は中々いないような気がします。
その最たる例が、高音=息のスピードが必要。という指導でしょうか。
少し話が脱線してしまいましたが、シエピは自身の楽器が良くなる息の量を適切にコントトールできる技術を若くして備えていた。
ということができる訳です。
ここで面白い動画を見つけたので、是非ご覧になって頂きたいのですが、
簡単に言うと、私が上に書いたような、太い息で作ったバスの声で歌う悪い歌唱をしている歌手と、
シエピの歌唱を、セビリャの理髪師のアリアで比較しているものです。
The worst vs the best Don Basilio – Andrea Silvestrelli vs Cesare Siepi
Silvestrelliは全体的に奥で作った声で、偽物のティンブロ(芯のある響き)を作っているにすぎず、ちょっと早口になると、全く何を言っているかわかりませんし、高音では開放感の無い声になり、同じ言葉を繰り返す部分では一つ一つの発音に変化がつきません。
一方のシエピ
言葉で表現するとはこういうことだ!
というのを体現するような演奏で、ただ良い声を出すことに固執した歌唱ではありません。
Silvestrelliより遥かに軽く柔軟性のある響きで変幻自在の表現が可能です。
よく最も強い生物は、力が強かったり繁殖力が強かったする以上に、変化に適用できることであるという意見がありますが、声楽で優れた声は、超絶技巧ができるたり、大きな声がだせること以上に、多彩な変化に対応できる柔軟な声なのではないかと思う訳です。
いゃ、シエピの場合はそれで屈指の美声まで兼ね備えているので、もはやチートなんですけどね(笑)
一体天はどれだけの贈り物を彼に与えたのでしょう・・・・。
1963年(40歳)
VOICE OF FIRESTONE WITH CESARE SIEPI
レポレッロのアリアを歌ってるんですが、
シエピがレポレッロ歌ったら、誰がジョヴァンニ歌うんや!
ちょっとこの人のカタログの歌だけは違うと思う。
それはともかく、この映像はちょっと良い声のバーゲンセール状態で、
本来のシエピの豊な表現とはちょっと違う方向性な気がして、声は文句なしなのですが、正直私は途中で飽きてしまう。
彼の良さは、柔らかいメゾピアノ~ピアノの表現をする時でも前に響きがあることで、
フォルテで美声を聴かせるバスならば沢山いる。
例えば現在最高のバス歌手の一人であるアブドラザコフ
素晴らしい美声だと思いますし、発声技術的にも申し分ないのですが、
アブドラザコフとシエピを比べた時、何がシエピをそれ以上の歌手としているかと言えば、圧倒的な柔軟さをもって前で言葉をさばきながらも、響きの深さを失わないところです。
演劇的に言葉を立てるのとは違い、声楽的な声を崩さずに声で表現できる範囲がシエピの場合は他の歌手よりも圧倒的に広いと言えば良いでしょうか。
少なくとも私はそう考えています。
1967年(44歳)
CESARE SIEPI in Recital 4/1/1967 -live
このリサイタルで驚かされるのは、
なんとRシュトラウスのリートを何曲か歌っていること。
38:55~
Rシュトラウスの歌曲を4曲歌うのですが、2曲目に歌う
”Du meines Herzens Krönelein”が特に素晴らしいですね。
まさかシエピがこんなリートを上手く歌えるとは知りませんでした。
録音状況があまりよくないのではっきりと発音は聴こえないですが、
それでも違和感は全然なくて、まず不自然なポルタメントを使わず、
元々発音も響きも前にあるためにドイツ語とも親和性がる声と言えるのかもしれません。
正直ハンス。ホッターより全然上手いっす(笑)
Hans Hotter; “Du meines Herzens Krönelein
シエピの演奏は41:22~です。
ホッターは高音でファルセットに近い抜いた声を使っていますが、
シエピは低音~高音まで同じ質の響きで歌えているためにレガートの完成度がホッターとは比較になりません。
なぜ低音~高音まで同じような質の響きで歌えなけらば一流歌手とは言えないのかは、正にホッターとシエピの比較で分るような、本物のレガートで歌うためには絶対に必要な技術がこれに当たるからです。
ここまでシエピのリートが素晴らしいと、
冬の旅は録音して欲しかった!
1976年(53歳)
CESARE SIEPI in Recital 1976 -live-
流石に声が少し重くなってきて、やや喉が鳴っているような感じになってきましたので、
どうしてもレガートが甘くなってしまっている部分も散見されますが、
この年になって出てくる味わいも当然あるもので、
1:10:00辺りから歌っている、ドン・カルロのフィリッポの有名なバスアリアの味わいは格別です。
若い時のギラギラした声では出せない味わいってやっぱりありますよね。
単純に声が一番出る年齢でどんな役でも上手く歌える訳ではなく、
声や技術が全盛期と比較して衰えても、その年齢になってハマる役や、歌曲の表現があるのが声楽の深いところ。
ヴェルディ ドン・カルロ Ella giammai m’amò
若い時のシエピの演奏と比較すると、
明らかに1976年の演奏の方が脱力した声で、比較してみると、
若い時は少し良い声を作っていた感じがあって、不自然さすら感じてしまいます。
脱力がいかに大事かが、特にフィリッポのような役で若い時の演奏と比較するとわかりますね。
1980年(57歳)
Il barbiere di Siviglia – Macerata, 1980 Horne, Nucci, Palacio, Siepi
若き日のヌッチが完全にテノールな件について語りたくなる、
バルトロ役のダーラの上手さが半端ねぇ
とか男声陣が凄過ぎるのですが、一先ず置いといて60歳近くなったシエピですね。
若い時より色々な小細工をせず、だからと言ってただ良い声で歌っているだけではない。
声が重くなった部分を生かした演奏スタイルに上手くシフトして、同じ曲でも年齢に応じて変化する声をプラスに変える表現を見つけているのがよくわかります。
1985年(62歳)
Concerto Operistico con Mirella Freni e Cesare Siepi 1985
フレーニは、恐らくオペラファンの中で歴代トップクラスのリリックソプラノと考える方もいらっしゃることと思いますが、私は実はあまり好きではありません。
この演奏会でも、シエピの深く余裕のあるブレスコントトールと広がりのある声に比べ、フレーニはフレージングより声で歌ってしまっている。
フレーニに習った歌手が大成しない理由も、結局声を前に当て過ぎると言えば良いのか、どうしても喉声気味になってしまう部分にあるのだと思います。
一番最後にドン・ジョヴァンニの二重唱を歌っており、
確かにフレーニの声はツェルリーナではありませんが、二人で歌った時にフレーニの声はまったく周りの音に溶けないで浮いてしまう。
これがドミンゴ同様、作った良い声の限界、
シエピとフレーニでは全く発声技術の次元が違うということですね。
こんな感じで、今回は戦前のシャリアピインに並ぶ伝説的バス歌手、
シエピについて取り上げてみました。
もし記事にして欲しい歌手がいればリクエストを頂ければ出来る限り応えたいと思います。
ただ、記事にしてもあまり良い評価ができない場合は、ただ批判するだけの記事になってしまい読む方も良い気はしないでしょうから、
リクエスト頂いた方にのみ、なぜ公の記事にできないかの理由を説明させて頂いております。
シエピ は本当に素晴らしいバスですね。
これだけ自然体で縦横無尽にバスの声を出せる人は居ないと思います。
それにしても、若い時から立派な声をされているのには驚きました。
リクエストの件でdaniele barioniというテノールが最近ちょっと気になっているのですが、何分日本語での情報が少ないのでよろしければ記事にして分析していただきたいなと思います。
虹さん
daniele barioniはメロッキ派の歌手だったと思います。
マルティヌッチは日本でも有名になりましたが、バリオーニをはじめ、バルトリーニ、ザンボンといった歌手はデル・モナコに劣らない声を持っていたにも関わらずそれほど有名になりませんでした。
バリオーニは記事にしようかと思っていたこともあるのですが、
マルティヌッチに習ったテノール歌手の知り合いから聞いた話では、ドミンゴを売り出したいスカラ座側から不当に役を下されるなどがあって訴訟にまで発展した歌手もいたそうで、
3大テノールが世界的に流布される中で、実力のある歌手が淘汰されてしまったクラシック型ポピュリズムについて触れることになるのと、虹さんの仰るとおり情報が少ない歌手なので、演奏を分析することは可能ですが詳しいことは書けないのでまだ記事を書けていないんです。
開放的な高音、強い響きを保ったままの分厚い低音、滑らかなフレージングなど、聴いているといつもうっとりとしてしまいます。ドイツ歌曲も良いですね。
のりしんさん
改めて若い時から晩年までの演奏を聴いてみると、レパートリーはあまり変わってないのですが演奏スタイルが随分変わっていることが分かって面白かったです。
ドイツ物はあまり歌っていないのに専門的に勉強したような演奏をしていますから、
実はリートも勉強されていたのか、圧倒的なセンスを持っていたのか、
何にしても、黄金時代のイタリアの歌手はもイタリア物しか歌えないという枠にもハマらない、
バスという声種の越えて恐るべき才能の歌手だと思います。
シエピはバスの金字塔ですよね…
なかなかこのようなバスの
分析の記事は滅多に見れないので
とても嬉しく思います。
バスの記事はアクセスが少ない…と
仰っていたので無理にとは
言えないのですが、例えば
シエピと並んでよく評価されている
ギャウロフをはじめとした
ブルガリアのバス歌手たちを
それぞれ比較してもらい
傾向など分析した記事をもしも
乗せて頂けたら嬉しいなぁと…
ブルガリアでは世評の高いバスが
連続して出て来ていたので
古い順に…
Boris christoff
Raffaele arie
Nicolai ghiaurov
Nicola ghiuselev
Orlin anastassov
をいつか分析して頂けたら
面白そうだなぁとこのシエピの
分析を見ていて思いました!
中々これだけバスを細かく
多面的にみてくれる方は
いないので…お手隙の時に是非。
バスフェチ様
嬉しいメッセージを頂きありがとうございます。
バスの発声は非常に難しいと思います。
私の感覚として、まず生まれ持った声だけで技術が伴わなくても、テノールのように喉に強い負担を強いられる訳ではありませんから、
技術で低音を鳴らせる歌手は本当にごく一部だと思います。
ただ、技術で出した声か、持って生まれた声だけで歌っているのかを聴き分けるのは容易ではないので、余計にバスの発声技術に興味を持つ人は少ないのだと思います。
因みにですが、挙げて下さった歌手ではBoris christoffが一番優れているかなと思います。
一方、知名度が一番高いNicolai ghiaurovは、ミレッラ・フレーニの旦那さんというステータスがあってのもので、正直そこまで優れた歌手だとは個人的に考えていません。
そう考えると、今は何気にバスは優れた歌手が多い時代だと思いますよ。
Ildar Abdrazakov
Ildebrando d’Arcangelo
Roberto Scandiuzzi
若手でも
Maxim Kuzmin-Karavaev
Christian Van Horn
といった歌手がいますから、大声でバリバリ鳴らす声を求めるなら過去の歌手の方が優れているかもしれませんが、
柔らかい声でディナーミクをコントロールできる、本当の意味で技術を持ったバスが現在はしっかり育っているなと感じます。
ご返信ありがとうございます!
ギャウロフについては実は
私もそう思っていて…特に
持っている楽器で歌ってる
ように思います。クリストフは
独特な声ではありますが
響きも高く素晴らしい
ですよね。私個人としては
柔らかい響きで空間の高さ
のあるバスが好きなので
ブルガリアのバスだと
アリエが好きですね…
あまり知名度はないですが
ミンジルキーエフの声が
東欧だととても好きで…
分厚い響きと柔らかさ
明るさを両立したカッコ良い
声をしております。
ロシアだとペトロフや
ネステレンコも素敵ですね!
今存命のバス歌手たちは
確かに素材だけで歌って
いるというかは響きの
質で考えると優れた楽器の
上に技術を持ってる声の
方が多いですよね!
最近のバスだとCho chanhee
や上記のKaravaev,
Vinogradovなんかは
響きが高くて好きですね!
シエピやアブドラザコフ
のインタビューの喋り声
が残ってたりしますが
別に必要以上に低く
鳴らしているわけではなく
あくまで歌う時に技術を
もってあの声になるのだなぁ
としみじみ感じてます。
なのでちゃんと技術さえ
あればあれくらいの音域で
喋る日本人の方もいるので
良い技術とバスの声を
ゆっくり育てられる
環境が出来て良い若い
バス歌手が生まれる事を
願いたい限りです。
バスフェチ様
私は全然バスには疎いので、勉強させて頂きます。
名前は知っていても、声が思い浮かばない方が殆どで・・・。
ドイツ・オーストリアのようなゲルマン系より、スラヴ系の歌手がお好きなのでしょうか?
私個人としては、声種に関係なく、アングロサクソン系の歌手にはあまり好きな人がいないんですよね。
ただ、戦前・戦後間もなくの米国は、様々な国からの移民が多くて、発声も、今のようなただ大声で吠える歌手ばかりではなかった。
jerome hinesはシエピに劣らない逸材だと思っています。
はじめまして、同業のものです、私もSiepiの実力には驚嘆しており、どのような考察がされているのか興味津々で拝読しました。言い方は人それぞれ本質的には全く異存ありません。私は50過ぎてから発声の本質に気付き始めたのですが、あなたはまだ30代、すばらしいですな。