Fatma Said & Joseph Middleton – Live from Wigmore Hall

あいかわらず秀逸なリサイタル映像を提供してくれるWigmore Hall
今回はFatma Saidのリサイタルがアップされたので紹介したいと思います。

 

 

 

Fatma Said & Joseph Middleton – Live from Wigmore Hall

 

<プログラム>

Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
Das Veilchen K476

Clara Schumann (1819-1896)
Das Veilchen

Franz Liszt (1811-1886)
Muttergottes-Sträusslein zum Mai-Monate S316
Das Veilchen

Johannes Brahms (1833-1897)
Fünf Lieder Op. 49
An ein Veilchen No. 2

Richard Strauss (1864-1949)
Mädchenblumen Op. 22
Kornblumen
Mohnblumen
Epheu

Franz Schubert (1797-1828)
Viola D786
Nacht und Träume D827

Gabriel Fauré (1845-1924)
Clair de lune Op. 46 No. 2
Après un rêve Op. 7 No. 1

Claude Debussy (1862-1918)
Nuit d’étoiles

Jean Sibelius (1865-1957)
Var det en dröm? Op. 37 No. 4

Edvard Grieg (1843-1907)
6 songs Op. 48
No. 6 Ein Traum

Leonard Bernstein (1918-1990)
Peter Pan
Dream with Me

Stephen Collins Foster (1826-1864)
Beautiful Dreamer

Kurt Weill (1900-1950)
Youkali
One Touch of Venus
Speak Low
I’m a stranger here myself

 

プログラムがスミレ祭りになってて笑ってしまいました。
そんな訳で、Veilchen(すみれ)の同じゲーテの詞が、
モーツァルト、クララ・シューマン、そしてリストでどんな風に作曲されているか、歌詞を見ながら楽しんでみて頂ければと思います。

 

【歌詞】

Ein Veilchen auf der Wiese stand
gebückt in sich und unbekannt;
es war ein herzig’s Veilchen.
Da kam ein’junge Schäferin
mit leichtem Schritt und munterm Sinn
daher, daher,
die Wiese her, und sang.

Ach denkt das Veilchen, wär’ich nur
die schönste Blume der Natur,
ach, nur ein kleines Weilchen,
bis mich das Liebchen abgepflückt
und an dem Busen matt gedrückt!
ach nue, ach nur,
ein Viertelstündchen lang!

Ach, aber ach! das Mädchen kam
und nicht in Acht das Veilchen nahm,
ertrat das arme Veilchen.
Es sank und starb und freut’ sich noch;
und sterb’ich denn, so sterb’ich doch
durch sie, durch sie,
zu ihren Füßen doch!

 

 

【日本語訳】

一本のすみれが牧場に咲いていた
ひっそりとうずくまり、人に知られずに。
それは本当にかわいいすみれだった!
そこへ若い羊飼いの少女がやって来た
軽やかな足どりで、晴れやかな心で
こっちの方へ近づいてくる
牧場の中を、歌をうたいながら。

ああ、とすみれは思った、もしも自分が
この世で一番きれいな花だったら、と
ああ、ほんのちょっとの間だけでも
あの少女に摘みとられて、
胸におしあてられて、やがてしぼむ
ああ、ほんの
十五分間だけでも

ああ、それなのに!少女はやってきたが、
そのすみれには眼もくれないで、
あわれなすみれを踏みつけてしまった!
すみれはつぶれ、息絶えたが、それでも嬉しがっていた
ともあれ、自分はあのひとのせいで
あのひとに踏まれて
死ぬんだから、と!

 

 

サイドは結構好きな歌手なので、このリサイタルは個人的に嬉しい🎵

リートよりはオペラの方が向いてるイメージでしたが、非常に言葉を丁寧に歌っている姿勢には好感が持てます。

低音はあまり響きませんが、変に胸に響きを落としたり、スカスカになることもなく、上手く言葉が籠らないポジションでまとめているのは流石。
シューベルトの”Viola”なんかは、ただ高音や超絶技巧が得意なだけのソプラノとは違う彼女の上手さが凝縮されている演奏と言えます。

細い高音の響きはサイドの得意とするところで、シュトラウスの歌曲の”Epheu”なんかは前者の曲とは違った、ハイソプラノらしい良さが出ていると思います。

ただ、音色に関しては色合いのパレットがまだまだ少ないと言えば良いのか、
全体が明るい音色一辺倒で、在り来たりの言い方をすれば深さが足りない。

その理由としては結局発声的なことになってしまうのですが、
基本的に響きが上半身だけで歌っていて、全体的に前傾姿勢で歌っていることからもわかる通り、背中と肩~耳の後ろにかけての筋肉を使いきれていないので、どうしても鼻気味なポジションになってしまう。
特に”u”母音や”o”母音はその傾向が顕著で、シューベルトのNacht und Träumeなんかを聴くと、結構音色がブレて横に開いたり、鼻に入ったりするところが分かり易いかもしれません。

フランス語はナザールとか鼻に掛ける感じだから、ドイツ物よりフランス物の方がサイドは上手いのでは?
と思われる方もいるかもしれませんが、実際フランス物は鼻声になると言葉が飛ばなくなるので逆です。
私がフランス歌曲の女王と勝手に崇めているジャンスの演奏を聴けばそれは明らか

 

 

 

 

Veronique Gens
フォーレ Claire de Lune

サイドの映像では43:10~です。
明らかに使ってる表情筋が違うのが分かると思います。
サイドは小さな動きで響きのブレをすくなくして、上澄の響きで歌うようなイメージですが、ジャンスは唇でしっかり発音する一方で、奥の空間は決して狭くならないように必要な筋肉が使えているので、上半身の響きではなく、言葉を喋るように歌っても声質にブレが生じない。

結果として、基本的な母音の質が両者では決定的に変わってきてしまう。
これは決して二人の声質が、サイドはレッジェーロでジャンスはリリコだからという問題ではありません。

ではハイソプラノに有利なドビュッシーのNuit d’étoilesではどうでしょうか。

 

 

 

 

Natalie Dessay

サイドの演奏は49:08~
手術後の演奏で全盛期の映像ではありませんが、
ドゥセイの凄いところは鼻声にならにところ。
この人のリハビリの様子がドキュメンタリーになっているのですが、
そこで徹底して唇の先と舌先で発音することを訓練している場面があるんですね。
口の中の空間をどんな発音でもなるべく変化させずに広く使うためには、ドゥセイのような歌手でも日常的に意識してそのような地道なトレーニングしている訳です。

そう考えると、サイドに足りないものは口内の空間を広く保ったままでしっかり発音する技術だと私は思う訳です。
それはともかく、ドゥセイのこの映像での手の動きが凄く気になって音楽を聴くのに集中できない(笑)

 

なんだかんだで、結構注文をたくさんつけてしまいましたが、
サイドが良い歌手であることは疑いようのない事実なので、これからどのように声が成熟していくのか、楽しみに見守りたいと思います。

 

 

 

CD

 

 

 

 

 

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