華やかさと渋さを併せ持ったメゾMegan Moore

Megan Moore(ミーガン ムーア )は1990年、米国のメゾソプラノ歌手

マンハッタン音楽院で学び、声楽の専門的な訓練を受け、ジョージ・ロンドン財団の支援を受けています。
主なレパートリーはヘンデル、モーツァルト、ロッシーニなど、アジリタを駆使する役のようですが、
リサイタル活動も積極的に行っており、フランス歌曲のレパートリーや、現代作品も積極的に歌っています。

活動の中心は南米~米国で、
2024-25シーズン: ボストン・バロックでヘンデルの《アリオダンテ》のタイトルロールを務めるほか、メトロポリタン・オペラでジャン=マイケル・テソリの新作《Grounded》のカバーキャストとして参加しています。

 

 

ロッシーニ チェネレントラ ハイライト

この演奏が2018年とのことなので、28歳頃の演奏。
本人のプロフィールに、リリックコロラトゥーラ メゾソプラノと記載しているだけあって、
高音はソプラノと言っても疑わないレベルに安定して出ていて、まだ線は細いものの低音~高音まで安定して出せていて、粗らしい粗も見当たらない、立派な歌唱をしていると思います。

 

 

シベリウス Var det en dröm

2020年、リンカーンセンターでの若手演奏家オーディションでの演奏のようですが、
歌曲歌っても上手い!
音色をロッシーニの時より暗めにつくっているというより、こっちが彼女の本来の声なのかな?という気がします。
弱音の表現でも、声の緊張感を損なわずに響きのポイントが散ってしまうこともないですし、
低音でも無理に鳴らすことなく、上手く胸の響きを混ぜている。
中低音の扱い方で、女声は特に音楽性が洗われる気がします。
胸にいれずに、さらっと細い響きの低音でも全然良いと思うのですけど、この曲の表現としては、やっぱり胸声を使った方が良い。
歌詞については、コチラのサイトで参照できます。

フィンランド語はぜんぜんわからないのですが、一番最後の「 dröm」の”m”のハミングの抜け方は見事。
語尾の”m”や”n”をどう処理するかは、センスと歌唱技術の見極め部分の一つで、
ちょっとでも、喉を押してしまうと、レガートにならずに、その言葉で流れが止まってしまうし、
流れを止めないために、唇や舌の接触時間を短くすると”ヌ”や”ム”のようになる。
これはこれで、イタリア物であれば良いと思うのですが、局によってそういった部分が突出してしまうのは曲の空気管に合わない。そこでムーアの演奏である。
母音と語尾の”m”の響きの質がかわらず、ハミングになっても響きの空間が狭くならない。
こういう歌い方ができる歌手は素直に尊敬します。

 

 

この曲、名テノール、Jussi Björlingのオケ伴奏によるライヴ録音もあるんですが、
個人的には、そちらよりもムーアの演奏の方が、内に秘めたるものを感じて好きですね。

 

 

 

 

2025年4月6日、ジョージ・ロンドン財団主催のリサイタル

このリサイタルについてのHPはコチラ

演奏としては素晴らしいのですが、ちょっと声が浮い聞こえると言えば良いのでしょうか?
浅いとはちょっと違うのですが、前に紹介したシベリウスの歌曲の演奏と比較すると、
上半身に頼った演奏に聴こえなくもない。

繊細な中音~高音で聴かせる、影のあるソプラノとは違うピアノの表現は魅力的なのですが、
低音域での厚みにはどうしても物足りなさを感じてしまう。

録音状況の問題もあるのかもしれませんが、
伴奏のピアノの聞こえ方から考えると、そこまで録音環境が悪いとは思えない。

ちょっとノビ悩んでるのかな?という印象で、
母音の質に関しても、”e”や”i”母音なんかは音質にブレがあって、喉に掛かるような尖った感じになることもあれば、
”a”母音は奥にあって、今一つ解放感が感じられないので、もっと明るさが欲しかったりする。
表現はとても素晴らしいのに、母音ごとの色彩感にどうも違和感があって、
デザインは良いのに塗装や装飾品がうまく調和していない建築物とでも表現すれば良いのでしょうか。
とにかく、どうしてそうなった?
と感じるような気持ちになる曲がちらほら聴かれ、
良い演奏ではあるんだけど、素直に感動できないところがある。

これはあくまで私個人の感想なので、全く違う印象を持つ方も当然沢山いらっしゃると思いますが、
とても良い声と高い技術、そして音楽性を持ち合わせてはいますが、超一流になるためには突破すべき課題もあるのではないかな>?というのが私の意見です。

今後、どういったレパートリーを中心に据えて歌っていくかはわかりませんが、
彼女の声が良い方向に成熟していくことを願うばかりです。

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