笛田 博昭(ふえだ ひろあき)は1978年生まれのテノール歌手。
今日本人で一番良いテノール歌手は?
と聞かれればこの方の名前を挙げる人は多いのではないでしょうか。
実際、声に関しては日本人離れしており、確かに強い高音を出すことだけに限れば最高の日本人テノールと言えなくもないかもしれませんが、数年前まではそれだけだったように感じがして、個人的には何を歌っても同じで、韓国人や米国人テノールに多いタイプだな~。と思っている程度で興味はありませんでした。
今回あえて取り上げたのは、リサイタル映像の一部がYOUTUBEに挙がったことと、
その中のインタビューで
「今までは声を出すことに集中していたがそれではドラマが見えてこない」
「歌は動かないので言葉で表現するので、役者以上に芝居心が必要」
と語っていたからです。
ただ良い声を出すテノールからどう変わろうとしているのか、このリサイタル映像で検証してみたいと思ったので、今回記事にすることにしました。
余談ですが、笛田氏が声楽を習った歌手の中に、Lina Vastaという人がいるのですが、
この人は恐るべき発声技術を持っていて、もうかなりの高齢ですが、小さい声でもよく通る本当に美しい声を維持されている素晴らしい歌手です。
Lina Vasta
息を通したらそこから押したり広げたりしないんですよね。
だから、普通なら歳を重ねると筋力が弱って支え切れずに声が揺れてきたりする訳ですけど、
ヴァスタは声に瑞々しさこそ無くなってはいても、響きのポジションが落ちたりしない。
如何に無駄な力を使わずに声を出せているかがわかりますね。
笛田博昭 リサイタル 20190609
こちらが以前の声だけで歌っていたときの演奏
ヴェルディ アイーダ Celeste Aida
個人的にこのリサイタル映像で歌っている中では冒頭に歌われた、
ベッリーニの[dolente immagine di fille mia]が一番今までとの違いを感じることができました。
オペラアリア以外を歌っているのを聴いたのが初めてなのと、低音域をどう歌うのかに注目していたこともあります。
下で紹介しているアイーダのアリアでは、低音と高音で響きの質が変わっているのですが、
今年のリサイタルでは低い音域でも非常に明確な発音と、均一な響きの質でしっかりコントロールされています。
【歌詞】
Dolente immagine di Fille mia,
perché sì squallida mi siedi accanto?
Che più desideri? Dirotto pianto
io sul tuo cenere versai finor.
Temi che immemore de’ sacri giuri
io possa accendermi ad altra face?
Ombra di Fillide,riposa in pace;
è inestinguibile l’antico ardor.
【日本語訳】
私のフィッリデの悲しげな姿よ
なぜ物悲しく私のそばに座っている?
これ以上あなたは何を望むのか?おびただしい涙を
私は今まであなたの亡骸に注いだ
私が聖なる誓いを忘れて
別の光に熱中することを心配するのか?
フィッリデの亡霊よ、安心して休んでください
昔の熱情は消えることはない
例えば、さりげなく難しいのが
3:22~3:33の「Che più desideri? ?」を二回繰り返す部分。
「desideri」はアクセントが「si」であって「de」ではないので、
音が上がる時に強くなったり響きの質が変わってはいけないのですが、
”d”の子音は破裂音で強くなり易く、”e”母音は横に平べったくなり易いという特徴があるため、
うまく詩のリズムを崩さないように歌うのは難しいです。
それを笛田氏は一回目はフォルテ気味に、二回目はピアノでしっかり歌えています。
José Carreras(0:26~0:37)
因みに、カレーラスはそれができません。
アペルトなカレーラスには、破裂音+”e”母音という課題をレガートで歌う技術はありません。
パッサッジョで上手く裏声と混ぜる技術はあるので、あまり気にならないかもしれませんが、実際は同じ声質、響きで声をコントールする技術はないです。
それはディ・ステファノも同じで、彼の場合は完全にファルセット気味に抜いて誤魔化します。
Giuseppe di Stefano(0:30~0:49)
このように、こんな些細な箇所だけでも笛田氏の歌が上手くなっていることがわかる訳ですね。
ただ、レガートに関して言えば更に磨く必要があります。
「io sul tuo cenere versai finor」を二回繰り返す部分の二回目(4:02~4:13)ですが、
同じ音で喋ると1拍子のように言葉のリズム感が感じられなかったり、
「versai finor」「ヴェール、サーイ、フィーイ」みたいな2度の下行音型
(一般的にため息音型と言われるやつ)ですが、これは典型的な嘆きの表現なので、こういう部分が細切れになるのはいただけません。
後は、これは好みの問題になりますが、こういう簡潔な歌曲でテンポをあまり弄るのはどうなんでしょう・・・
ピアノの表現が遅いテンポじゃないとできません。
という風に聴こえなくもない。
ある程度一定のテンポの中で詩のリズムとディナーミクを収めて歌った方が良いと思うのですが、まぁベルカント物のオペラ作曲家の歌曲だし、そこまでしなくても良いのかな?
因みにフィジケッラはテンポをほぼ弄らずに歌ってます。
SALVATORE FISICHELLA
余談ですが、フィジケッラはディ・ステファノやカレーラスに比べれば全然知名度はありませんが、間違えなく技術は上です。
笛田氏のリサイタルに話を戻してまして、
このリサイタルでは高音の調子はあまり良くなかったように聴こえました。
[Vanne, o rosa fortunata](8:02~)は最後がちょっとキツそうだったのが気がかりです。
こういう軽やかな曲で、高音のAをドラマティックなアリアのように歌うのは違うかなと、
こういうところでミックスボイスを使えるともっと表現に幅が出るんだろうけど、まだ笛田氏の高音は太過ぎる気がします。
Gianluca Terranova
この人は歌が上手いかどうかは別として、最後の部分(1:19~)
「Là trovar dobbiam la morte Tu d’invidia ed io d’amor」
(私たちは死ななければならない あなたは嫉妬に、そして私は愛に)
声はかなりドラマティックですが、パッサージョから高音に抜けていく部分で、
声が太くならず、「dobbiam」の語尾の”m”がしっかり発音できるくらい薄くて高いポジションで常に歌えている。これが笛田氏が今後言葉の表現を磨いていく上では必要な部分だと私は思っています。
ここに息を通せればもっと高音でもディナーミクが楽につけられるはずですし、
これは声の訓練ではなく、発音の訓練の延長線上で開拓されるべき部分でしょう。
なぜなら、技術は単体で存在しているのではなく、自由に表現するために必要になるからです。
表現したいことが増えれば自ずと多くの技術が必要になってくるし、足りない物、必要な物が見えてきます。
デル・モナコみたいな高音が出せるようになりたい!とだけ思ってる人には必要のないことですが、言葉で役者以上の表現をしたい。
とインタビューで語った通りのことを望んでいるのであれば、必然的に磨くことになる技術が結局のところ、発音とレガートになるのではないかとこの演奏を聴いて感じました。
あくまで今回は映像を見ての記事になるので、
今後機会があればオペラかリサイタルにいってちゃんと笛田氏の歌唱を聴いて記事を書きたいと思います。
兎に角、ただ声だけを追求するスタイルから脱皮したことは大変喜ばしいことなので、今後の活動には注目しようと思います。
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