今流行のヤツが遂に私の職場に襲来しまして、この度、私は濃厚接触者となってしまいましたので、暫くはヒッキーになります。
引きこもりと言っても、在宅勤務なので何もすることがない訳ではありませんが、在宅勤務は効率悪いし、ずっと家にいるのは気分が滅入るので好きになれません・・・。
私個人としては何一つ健康に問題はないのですが、こういう情報を発信しただけで、
「無症状でも感染してる可能性があるから検査しろ」とか言ってくる人がいるのでした。
もし私が感染していても、出歩かなけれあ拡散させることはないので問題ないので、
(実際陽性とわかっても軽症者は自宅待機の人はいる)
むしろ検査のために出歩かなければいけない方がリスクを伴うことは、ちょっと考えればわかりそうなものなんですけどね・・・。
そもそも検査数が少ないことで世界から批判されている日本の現状を考えれば、どう考えても何かしらの症状が出ない限り検査対象にはなりません。
周囲に情報開示を行った結果こういう反応が返ってくるあたり、人心の荒み具合が酷くなってるなと感じます。
私達にとっての問題は一つではなく、強制的な隔離や、濃厚接触者、感染者への過度な偏見による心身に与える悪影響は議論にすら上がることがなく、出てくる話題は経済のことばかり。
こういった状況を見ても、私達の心は守られる対象とはなっていないということがよくわかります。
そもそも、お金がない=生活できない。
というシステムそのものに疑問を持つべき時期にきているのではないかと私は思っているのですが、それはともかく、
強制的な隔離、孤独に相対した時、痴呆症の悪化、糖尿病の発症率の上昇、免疫力の低下、
家庭を持っていればDVが深刻な問題となり、離婚も急増している。
といった重大な問題が起こっているのです。
更に、ランセットによると、男声は働けないことによる不安というのが大きな健康的なストレスを与えるのだそうで、それらを総合した結果として、ロックダウンや厳しい外出制限を行った都市で急激に死亡率が上がっていることと、隔離による孤独が大きな因果関係にあることは疑いようがありません。
例えば以下のようなデータが出ています。
孤独と死亡率に関するソースはコチラ
女性より男声の死亡率が高いことが報じられるようになりましたが、
女性より男性の方が仕事以外で社会との繋がりがない人が多いことが影響しているのではないかと私は考えています。
そうでなければ、単純に喫煙率や肥満度といったことだけでは、厳しい規制をしてから急激に死亡率が上昇したことの説明がつかないからです。
以上のような理由からも、人間らしい心を守るためにも文化的な生活を送ることが命を守ることになると言っても過言ではない!
という結論に至りました。
芸術は余裕がある人の娯楽ではなく、人が人であるために必要なことだと確信しています。
そこで私が文化的な引きこもり生活を送るために役立っているのが、OperaVisionです。
YOUTUBEチャンネルOperaVision
OperaVisionの公式HPはコチラ
一流歌劇場の公演をただアップするだけでなく、
モーツァルト作品は特にキャストも若手中心でありながら質の高い、
総合的に観ていて楽しめる演奏ばかりで良い時間を過ごすことができます。
例えば先日アップされた コジ・ファン・トゥッテや、その前にアップされているフィガロの結婚は、主要キャストのアリアや重唱だけを聴けばそれほど素晴らしいと思えるレベルの歌手が揃っているとは言えないかもしれませんが、
オペラ全体を通して観ると、なんだかとても良い雰囲気で暖かい気持ちになれると言えば良いのか、今私達に必要なものを与えてくれる演奏に聞こえました。
COSÌ FAN TUTTE
こちらは、アルフォンソを歌っている大御所、トマス・アレンが脇を固めているのが本当に効果的です。
若手キャストの中に、こうした大ベテランの一流歌手が要所を抑えることで演奏全体に大きな好循環をもたらしているんでしょうね。
LE NOZZE DI FIGARO
一方のフィガロは、バジーリオを歌った歌手のレベルが他のキャストと比較しても極端に低い気がしたのは気になりましたが、全体としては面白いです。
実力者揃いの熱い演奏を楽しみたい方へのお勧めは、フェニーチェのドン・ジョヴァンニ
非常にレベルの高い歌手陣を揃えた、俗っぽい言い方をすればガチなキャストによるドン・ジョヴァンニ。
特に女声陣は現代で揃えた理想的なキャストとさへ言えるかもしれません。
しかし、そんな中で個人的に驚いたのはStefano Montanariの指揮がキレッキレで場面転換の機動力、歌唱を引き立たせる絶妙なバランスでのオケの鳴らし方、レチタティーヴォからアリアへの実に自然な繋ぎ方など、ドラマの集中力が切れる瞬間が全然ないのです。
個々の歌手については今回書くことはしませんが、
上手い歌手は、動作としての演技ではなく、映像をみなくても演技が見えるような歌唱が出来るなぁ。
というのが最近立て続けに色々なオペラを見ていて思うことです。
セメンツァート(セメンザート)のツェルリーナは、一般的なツェルリーナのイメージを打ち破る強烈な存在感を示していて、特に印象的でした。
アリアと他の部分は切り離された音楽ではなくて、全体の中で自然にアリアが存在するような解釈をしなければいけないという意味では、演奏会でアリアだけ歌うのと、オペラ全曲の中でアリアを歌うのでは同じではないのかもしれません。
この辺りはいつか考察してみたいと思います。
普段は出来る限り声楽以外の話題は書かないように努めておりましたが、
どうしても政治と音楽は切り離すことができないこと。
そして今回は実体験もあり、こういった発信をさせて頂きました。
身体が健康でも心が死んでしまったら意味がありませんので、どうか皆様が心身とも健全な状態でこの危機を乗り切れることを心より願っております。
[…] そのような視点でみると、やっぱり先日コチラの記事で紹介したフェニーチェのようなイタリアの劇場は、国内の歌手だけで主役を固めてもとても高いレベルを維持できる。 歌唱芸術を牽引してきた国としての底力を見た気がしました。 […]