もっと評価されるべきだった印象的な名前の名テノールAtilla KissーB

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Atilla KissーB(アッティラ キス・ベー)は1963年ルーマニア生まれ(当時ハンガリー領)のテノール歌手。

記事によって、

一度見たら忘れられないようなインパクトのある名前で、
名前だけ見たら女性かと思ってしまう方も少なくないと思いますが、
この人はリリコ・スピントテノールで、イタリアオペラからワーグナー作品、お国もののハンガリー語の作品までを、ハンガリー国立歌劇場で200年初頭~現在まで歌い続けています。

ハンガリーという場所的にもあまり注目されないのでしょう。
これだけ印象に残る名前なら、一度見れば記憶していると思うのですが、
来日はもちろん、大きな劇場に出ていた痕跡も見当たりません。
ですが、その声はそこらのテノールでは太刀打ちできない立派なものです。

 

 

 

トスカ フィナーレのトスカとカヴァラドッシの二重唱

トスカ役のソプラノが喉声なのに対して、キス・ベーの歌唱は軽さと強さを併せ持っており、高音の輝き、余裕のあるフレージング、明瞭発音とレガートなど、どこを取っても高い次元でこなせており、こう言っては失礼ですが、相手役のソプラノとは学生と教師くらい実力に差があります。

 

 

 

 

ワーグナー ローエングリン(全曲)

ローエングリンの登場41:20~

こちらもハンガリー国立歌劇場での演奏なのですが、
近年のバイロイトよりよっぽど主役のレベルが高い!
エルザ役のSümegi Eszterも、ちょっと発音に癖があって、勢いで歌うところはあるものの、実に解像度が高く澄んだ響きと強度を持った声をしていて、中低音になっても詰まることなく、または無理に押し出すようなこともせず、無理なく強い響きを保っていて、大劇場で主役を張っている有名歌手にも引けを取らないのではないでしょうか?

テルラムント役のPerencz Bélaも、高音の伸びは大したもので、
立派なヘルデンバリトンと言っても差し支えないでしょうし、

オルトルートには、唯一有名歌手のMarton Évaがどっしりと構えています。
フォルテの表現は正直キャパを超えた声を出そうとしていて、所々破綻しているように感じるのですが、意外とピアノの表現や低音の響きには雰囲気があって、これはこれで魅力があります。

 

さて、キス・ベーの歌唱ですが、
この人の関心するところは、”i”母音の処理。
私は頻繁に記事の中で”i”母音の重要性について書いていますが、

キス・ベーは本来”i”母音の響きとして良い硬口蓋付近ではなく、
本来”e”母音が鳴る。という言い方が正しいのかはわかりませんが、頬骨の下辺りで”i”母音が鳴っています。
普通は発音のポジションが奥になれば、ドイツ語に欠かせない明るく明確な”i”母音にはならないのですが、キス・ベーはとても細く繊細な。まさに針に糸を通すような制度のブレスコントロールによってこれを可能にしています。

 

言葉では中々伝わり難いと思いますので、フィナーレに歌う
Mein lieber Schwanを何人かの歌手で聴き比べてみましょう。

 

出だしの歌詞は以下の通り、

「Mein lieber Schwan!
Ach, diese letzte, traur’ge Fahrt,
wie gern hätt’ ich sie dir erspart!」

この通り、”i”母音と”e”母音が、音量的にはピアノで五線の上のDやFisを行ったり来たりするということで、ここだけ聴いてもテノールとしての力量丸裸の恐ろしいフレーズです(笑)

因みにキス・ベーの演奏は3:19:40~です。

 

 

 

Klaus Florian Vogt

今を時めくフォークトですが、
こうして比較すれば、明らかに鼻声なのがお分かり頂けるかと思います。

 

 

 

James King

”i”母音は良いポジションに入っているのですが、”e”母音でポジションが変わってしまうのがわかるでしょうか?
特に 「diese letzte」の「letzte」という単語での下行音型は何とか持ちこたえたといった感じです。

 

 

 

Nicolai Gedda

この薄くて細い”i”母音を軸に”e”母音の響きも合わせるという、ゲッダらしいテクニックが詰まった歌唱ですが、それでも「erspart」の「er」で少し崩れているところを聴けば、いかにこのフレーズが難しいかが分かって頂けるのではないでしょうか。

そしてキス・ベーの演奏ですけど、
私的には感動するくらい上手い。
”e”母音の厚みと”i”母音の明るい響きのポイントを絶妙なブレスコントロールで維持しているのですから凄いの一言。

なお、私が最高のローエングリンだと思っているザイフェルトの演奏はと言いますと、

 

 

 

Peter Seiffert

この通り、ドイツ語の”i”母音の響きは本来こうあるべきだ!
みたいな、硬質でありながらも柔軟さがあって強く明るい響きなのですが、
この音源はちょっと鼻に入り気味の部分もあって、
この曲だけならキス・ベーが私が今まで聴いた中でも最高かもしれません。

 

 

 

 

プッチーニ マノン・レスコー Ah! Manon, mi tradisce

このような劇的な表現が求められる作品も、
ローエングリンでの声と同じ質を保っていることからもわかるように、根本的にはとても細く繊細な息で声がコントトールされています。
特にマノン・レスコーのデ・グリュー役は、劇的でありながらも音域が高いので、勢いで歌ってしまうとまず持ちませんし、自然なディナーミクをつけることも困難になってしまいます。

 

 

 

 

Placido Domingo

言わずと知れた近代最も有名なテノールの一人ドミンゴですが、
演技やレパートリーの広さを加味せず、純粋に歌唱技術だけで言えばドミンゴの歌唱は一流とは言えないです。

キス・ベーの演奏の方が、曲全体を通して響きが安定しており、
バリトン上がりなので、本来低音もしっかり鳴るはずのドミンゴの方が、中低音で響きが落ちてしまっているのがわかります。

高音では、流石に”i”母音の響きの鋭さをしっかり持っているので、響きのポイントとしては素晴らしいのですが、必要以上の圧力で歌っているために、どうしても広がりに欠ける声になってしまう。
勿論録音状況や会場も違いますから、音源だけで声を比較することは適切ではないでしょうが、
キス・ベーの方が、ドミンゴよりもブレスコントトールが上手いことは間違えありません。

 

こんな感じで、片方は世界的に最も有名な歌手。
もう片方はハンガリー国内だけで活躍する歌手。
この差はどこからくるのでしょう・・・少なくとも、キス・ベーとドミンゴの歌唱にそれほどの歌唱能力の差があるとは誰が聴いても思わないことでしょう。

こういう実力の割に認知度が低い歌手を探して紹介することができるのも、YOUTUBEのようなツールがあればこそ。
これからはもっと、有名コンクールの受賞歴や、大きな劇場への出演歴といった立派な履歴書の価値が下がる時代になるのではないかと思います。

だって、こうして実際の音源を聴いたら上手い人を聴きたいでしょ。普通に・・・。
学歴はある程度詐称できるかもしれませんが、生演奏で実力を水増しすることは不可能ですからね。

更に、キス・ベーが主演の演奏会チケットに比べて、ドミンゴ主演だったら何倍になるのだろう・・・なんてことを考えると、今の時代にネームバリューで演奏会を聴きに行くのは辞めた方が良いでしょう。

 

 

 

<オマケ>

 

Mein lieber Schwanの歌唱比較における説明について、補足で動画を作成しました。
上手く比較ができているかは微妙ですが、
最後のフレーズ「wie gern hätt’ ich sie dir erspart!」の部分は、
”i”母音の響きを基調にした前に響きを意識した場合と、
”a”母音の響きのポイントを意識して、やや引き気味に歌った場合では、
”i”母音を前にもっていきすぎない方が、上手くレガートができる感じがありました。

 

 

 

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【解説動画】 母音の音質と響きの統一について

 

 

 

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2件のコメント

  • JK より:

    Atilla KissーB、本当に上手なテノールですね。歌唱に関係ない話で恐縮ですが、アッティラの名前に吃驚しました。ヴェルディのオペラでも有名なアッティラは、東方の遊牧民族を引き連れてヨーロッパを蹂躙した蛮族の長。アッティラが通った後は草も生えない、という表現が今でも使われています。アッティラ襲来の知らせに恐れおののく市民に「くじけるな、団結して立ち向かおう」と呼び掛けた聖ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖女。当時の人々は容貌の描写をいっさいしなかったので、アッティラがどのような民族に属するのかは不明。ただし、ハンガリー人はアッティラの末裔ではないか、という説があります。たしかに、ハンガリー語は周囲のスラブ語とはまったく異なる言語だし、伝統的にハンガリー人は馬を乗りこなすのが上手なので有名。だから、他の国では恐ろしい名前であるアッティラも、ハンガリーでは肯定的に見られているのでしょうか。

    • Yuya より:

      JKさん

      興味深いコメントありがとうございます。
      アッティラ王はモンゴル系の部族と言われているようなので、確かに遊牧民のイメージそのままですね。
      そういえば、韓国人のオペラ歌手にもアッティラ・ユンという人がいますので、アジア~東欧まで、意外と珍しくない名前なのかもしれませんね。

      しかし、東方といってもハンガリーとそこまで関係があるとは知りませんでした。
      マジャール語、私は全然学んだことがないのですが、合唱ではコダーイを中心に演奏される機会があって、
      コンクールでも課題曲になったりするくらいで、そこまで発音などは難しくないらしいですよ。

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