色彩感に富んだカウンターテノールFlavio Ferri-Benedetti

Flavio Ferri-Benedetti(フラーヴィオ フェッリ=ベネデッティ)は1983年、イタリア生まれのカウンターテノール歌手。

長髪、髭面という外見からは想像もつかないほど繊細な表現をするカウンターテノール。
イタリア生まれではありますが、11歳でスペインへ移って最初はピアノや文学などを学んでいたようです。

その後、Gerd Türkというテノール歌手に師事して声楽を学びはじめ、
スイスで世界的なカウンターテノールAndreas Scholl,や、ソプラノ歌手のLina Maria Äkerlundに習い、ヨーロッパを中心に宗教曲の分野で活躍しています。

日本にも来日していたようですが、恥ずかしながら私は全くその時はノーチェックでした。
得意分野はルネサンス・バロックの宗教曲ということですが、私個人としては、Rシューマンの歌曲の演奏に衝撃を受けました。

 

 

 

 

レスピーギ Nebbie

イタリア人ですから、やっぱりイタリアの歌曲をまずは聴いてみましょう。
カウンターテノールがレスピーギを歌うというのは珍しいです。
少なくとも私はこの人以外聴いたことありません。

演奏の方はと言うと、この曲が比較的劇的な声を求める音楽なので、カウンターテノールで歌うと低音に薄さを感じてしまうのと、高音も少々無理をしてる感じがあって、100%の力で声を張られると、カウンターテノール特有の美しさが損なわれてしまい、伸ばしてる音で不自然に揺れてしまうのは勿体ないですね。
ただ、無理に太い声で押すような歌い方をしている訳ではないので、無理をしている感じはあっても健康的な響きで、決して演奏として悪い訳ではありませn。

 

 

 

Rシューマン Mondnacht

 

【歌詞】

Es war,als hätt’ der Himmel,
Die Erde still geküßt,
Daß sie im Blütenschimmer
Von ihm nur träumen müßt.

Die Luft ging durch die Felder,
Die Ähren wogten sacht,
Es rauschten leis die Wälder,
So sternklar war die Nacht.

Und meine Seele spannte
Weit ihre Flügel aus,
Flog durch die stillen Lande,
Als flöge sie nach Haus.

 

 

【日本語訳】

それは夜空が大地にそっと
口づけしたかのようだった
花々に彩られる大地が
自分を想ってくれるようにと

そよ風が野原を渡り
麦の穂がかすかに揺れ
森はひそやかにざわめいていた
それは星のきらめく夜だった

そして僕の魂は
広々とその翼を広げ
静かな大地の上を羽ばたいていった
わが家へ帰っていくように

 

 

イタリア人が歌うドイツリートではないですね。
と言うと差別になってしまうのかもしれませんが、
子音だけでなく、母音の音色の使い分けが本当に上手い!
どうしてもイタリア人がドイツ語を歌うと、
勿論語尾の子音の処理はあるのですが、それ以上にべったりした母音に違和感を覚えることが多々あります、(特にテノール歌手は・・・)

しかしフェッリ=ベネデッティは前の響きのポイントを外すことなく、
深い”o”母音や、”u”母音を扱えているので、かなり過剰なディナーミクを使っていても、
ピアノの表現で奥に声を飲み込んでしまうことがなく、レガートが維持できていて音楽の緊張感が切れない。

”R”の巻き具合も絶妙で、言葉の意味にあったスピード感、巻く回数をよく考えて歌っているのがよくわかります。
この人の演奏を聴くと、ただキレイに歌うだけの演奏では物足りなくなります。

例えば、一応リートが上手いと言われているボニー

 

 

Barbara Bonney

美しい声かもしれませんが、音節ごとにフレーズが切れてしまっていて、
どこを切っても同じ響き、同じ音色です。
呼吸のスピード感がどこでも変わらず、どんな言葉でも均等な音色で話したら、それは感情のない人間ですよね。
私はこの通うに心拍、つまり生命を感じることができません。
それと比べてフェッリ=ベネデッティの何と生き生きとした演奏だこと。

私はシューマンの歌曲はあまり好きではなかったのですが、彼の演奏を聴いて、感情の起伏が激しかったRシューマンが書いた歌曲を、ただ美しく歌うことに違和感を持っていたんだな。ということに気付かされました。
思いこんだら、とことん誇大妄想が膨張していくような歌唱をしてこそRシューマンの歌曲の世界は開けるのかもしれない・・・とは言い過ぎか!?

 

 

 

 

シューマン  Wehmut

 

【歌詞】

Ich kann wohl manchmal singen,
Als ob ich fröhlich sei,
Doch heimlich Tränen dringen,
Da wird das Herz mir frei.

Es lassen Nachtigallen,
Spielt draußen Frühlingsluft,
Der Sehnsucht Lied erschallen
Aus ihres Kerkers Gruft.

Da lauschen alle Herzen,
Und alles ist erfreut,
Doch keiner fühlt die Schmerzen,
Im Lied das tiefe Leid.

 

 

【日本語訳】

私はいくらでも歌を歌えるのだ
まるで私が陽気であるかのように
だけどひそかに涙を流すのだ
そうすることで自分の心を軽くする

ナイチンゲールたちにはできるのだ
表で春のそよ風がたわむれるときに
憧れの歌を響かせることが
彼らの鳥かごの墓場の中からでも

それを聴くのだ すべての心は
そしてみんな幸せになる
だがだれもこの痛みを感じ取りはしない
歌の中の底深い悲しみを

 

平常心を保っていても時々抑えきれずに爆発する感じ、
私の求めていたシューマンの歌唱はコレだな~。と思わせてくれる本当に優れた演奏。

声も勿論美しくて、レスピーギを歌ってる人とは別人のように柔軟な響きを聴かせている上に、
カウンターテノールの長所とも短所とも言える直線的な声が、ドイツ語とRシューマンの音楽に上手くシンクロして感情がダイレクトに届く。

テノールがこういう表現をしても、ほぼ鬱陶しいだけで終わると思うので、
誰もが参考にすべき歌唱とは思いませんが、表現の引き出しを与えてくれるという意味では、リートが好きな人なら尚更心に留まる演奏なのではないかと思います。

 

 

 

 

自宅待機中にアップしたジャズ演奏

 

実声での歌唱も披露していて大変興味深いです。
実声の歌唱とファルセットでの歌唱はつながっていることがこの演奏を聴けばよく分かると思います。

「ファルセット歌唱は喉が上がるので、高音を実声からファルセットへ繋げるミックスボイスはクラシックの歌唱ではない」
と説いていた、自称発声研究家がいらっしゃいましたが、正しいファルセット歌唱では喉が上がりません。
ファルセットが綺麗な歌手は、私の知っている限りでは実声で歌っても例外なく良い声です。

 

 

 

 

最後に、ヘンデルの誕生日を祝って歌ったハッピーバスデー(イタリア語歌唱)

 

この人はドイツに住んでいるんでしょうか。
普通にドイツ語を喋っていて、そうでなきゃあんなリートは歌えないよな~と納得した訳ですが、この演奏も茶目っ気がありながらも堅実な技術に裏打ちされた高度な遊びを展開していてとても面白いです。

 

因みにこの映像で最初に歌っているのは、椿姫終幕のヴィオレッタのセリフの断片
「Teneste la promessa・・・ il barone fu ferito,
Però migliora Alfredo Però migliora Alfredo
È in stranio suolo; il vostro sacrifizio
Io stesso gli ho svelato;
Egli a voi tornerà pel suo perdono Curatevi… meritate」

(貴女には約束を守っていただいた 男爵は負傷しましたが、
回復に向かっています。アルフレードは
国外におります。貴女の苦悩は
彼に伝えました。
許しを求めに参るはずです お体をお大事に・・・)

 

続くドイツ語の会話は以下のような感じ
以下(フェッリ=ベネデッティ=F、彼の友人=A)

A「フラヴィオ フラヴィオ」
F「はい?」
A「ヘンデルだ!」
F「何だって?」
A「ヘンデルだよ。」
F「俺は完全に間違ってた」
「今日がジョージ・フリードリヒ ヘンデルの誕生日だと?」
A「その通りだ」
F「マジか、わかった、君のリクエストを受けよう 問題ない」

 

こういう遊び心に満ちた自然な表現が彼の音楽を形作っているのかもしれませんね。
発声技術は勿論素晴らしいのですが、それ以上に、感受性とそれを音楽として自然に表現するセンスがあってこそ声が生きるというもので、こういう歌手は自然と応援したくなってしまいます。

 

 

CD

 

 

 

 

 

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