Sarah Hayashiの歌唱について考える

Sarah Hayashiは日仏系米国人のソプラノ歌手。

5歳からピアノを、小学校からヴィオラを習いました。
バルティモアのピーボディ音楽院で声楽を学び、その後イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックとウェールズ国際声楽アカデミーで研鑽を積みました。

2021年にはドイツのエアフルト劇場でスザンナとバルバリーナ《フィガロの結婚》や、ラムドールの《ペッタソンとファインダス》でファインダスを歌ってドイツ・デビューを果たしました。
また、コンサートやリサイタルでも活躍しており、キリ・テ・カナワやバーバラ・ボニーなどの名歌手からマスタークラスを受けています。

2018年にはウィスコンシン州マディソンで開催されたヘンデル・アリア・コンペティションで第2位になっています。
現在もエアフルト劇場で定期的に歌っているようで、同劇場の専属歌手になっています。

 

 

 

 

そんあSarah Hayashiですが、
日本では歌っていないようですし、教育もずっと欧米で受けてきていることから、おそらく日本語には全然触れていないのではないかと思います。

何が言いたいかと言うと、日本人歌手の声の浅さは、日本語の問題が大きいと考えている方がいて、私も表情筋や舌を殆ど使わずに発音できる日本語は、声楽をやるのに必要な筋力を付かないという面でその通りだと思っています。

逆に言えば、日系人でも日本語を話していなければ、西洋の歌手と同じような声になっているに違いない・・・ということになる。
ここまで前置きが長くなってしまいましたが、その辺りを考えた上で彼女の歌唱を聴いてみると、ただ日系人歌手の演奏という異常に感じ取れる部分があるのではないかと思います。

 

 

ヘンデル 『スキピオ』よりScoglio d’immota

まず、声の線は細いのですが、日本人の特にソプラノ歌手に見られる、
”e”母音が平べったくなる症状がなく、低い音域になっても響きのポジションがかわらないのは立派だなと思います。

 

 

 

10年近く前の演奏と比較すると、

若い時は鼻よりの響きで、技巧や高音はこの頃からかなりしっかりできていたものの、発音が不明瞭で、フレージングは考えているのでしょうが、息がなくなったからブレスしてます。みたいな音楽で、正直これなら声でなくても、器楽で演奏すれば良いじゃん?という演奏になっている。

こういう面を見ても、しっかり技術を磨いて堅実な歌唱ができるようになっていることは評価できる部分でしょう。
一方で、技巧を得意とする歌手には、技巧的ではない曲を歌うとあまり上手くい聴こえないというタイプがいるのも事実で、Sarah Hayashiの場合も課題はそこなように思えます。

 

 

ヘンデル 『オットーオネ』Falsa Immagine

まずレチタティーヴォが控えめに言って歌い過ぎで音大生みたい。
BCJに所属している方からヘンデルの演奏については指導を受けていますが、歌詞を喋ることの重要性を強調されていますし、学生時代に習った結構名前の知れたカウンターテノールの先生も同じことを言ってましたので、やっぱりこのレチタティーヴォには違和感を覚えます。

アリアに入ってからも、とにかく伸ばしている音に不要なヴィブラートが掛かるので、ロマン派以降ならまだ許容できるのかもしれませんが、古楽でこれはちょっといただけない。

そして声の面ですが、
細い声でも、開いた声でないといけないのですが、どうしても上半身だけの響きで、スケールが小さく聞こえてしまう。
ディミヌエンドとは違って、なんか伸ばしている音の緊張感がなくなって減衰していく感じなのが特に気になります。
英国のソプラノ、Lucy Croweと比較してしまうと、
やっぱりSarah Hayashiも日本人声を脱していないのか?という感覚になってしまう。

 

 

 

Lucy Crowe

やっぱり胸の響きと連動している声でないと、どうしても上半身だけの浅い声に感じてしまう。

いわゆる「開いた声」は日本語の平べったさが要因の一つだろうと思っていたのですが、Sarah Hayashiの歌唱を聴いていると、あながちそうとも言い切れない気がしてきました。

大雑把に言ってしまえば、Sarah Hayashiの歌唱はフォームこそ整っているが、スケールが小さい。
それは別に声量とか、声の太さ、発声技術の問題だけではなく、感情の動きと声が連動している感じがなく、とても機械的に聞こえてしまう部分もあると思います。

こういう歌唱は、どの曲を聴いても同じように聞こえてしまって、うまいけど面白くない印象をもってしまう。

彼女が今後どのようになっていくかはわかりませんが、日本人歌手が一番苦労するであろう、言語的な壁を持たないにも関わらず、言語的な表現力の希薄さが課題というのを見ると、喋ることと歌うことは明確に異なる部分があるのは間違えありません。

 

 

最後に、この記事とは関係ないですが、
ナタリー デセイ(Natalie Dessay)が2025年に60歳で引退を発表したということでコメントを下さった方いましたので、改めて彼女のヘンデルの歌唱を聴いてみると、やっぱりピアニッシモの緊張感が半端ない。
超絶技巧や超高音、憑依されたような演技などに当時は魅了されていましたが、すべては完璧なピアニッシモの技術があってこそ成り立つのかもしれません。

 

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