Fernando Corenaの変幻自在な節回しこそブッファの本質だ

 

Fernando Corena(フェルナンド コレナ)1916年~1984年はスイスのバス歌手。
ブッファ(喜劇)作品に於いて絶対的な存在感を放った名優である。

 

 

 

ドニゼッティ 愛の妙薬 Udite udite o rustici

自由奔放に歌っているようで、音楽自体のフォルムは全く崩していない。
音楽は言葉を縛るものではなく、与えられた音符の長さ、高さで充分に表現できるように、
一流作曲家は計算して曲を書いているんだ!
ということを教えてくれる。
例えドニゼッティが商業的に旋律の使い回しを繰り返し、
独創性、個性に欠ける作品を大量に生み出した作曲家であったとしても、
一流オペラ作曲家であったという事実は揺るがない。
そして、一流オペラというのは結局のところ、音楽と台本(言葉)の親和性が高いということではないだろうか?

 

 

 

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ Madamina, il catalogo è questo

声で演技をするとはこういうことだ。
いくら動作を付けて良い声で歌っても、決してブッファをブッファたらしめることはできない。
ネトレプコの前の夫、シャーロットの歌唱と比較するとそのことが良くわかる。

 

 

アーウィン シュロット

シャーロットは疑いようのない美声の持ち主であるが、コレナと比べてしまうと硬さが耳につく。
この違いが、声で歌っているシャーロットと言葉でしゃべっているコレナの違い。

シャーロットは、やや奥に掘り下げたような、多少無理やり深さを作っているところがあり、
ディナーミクでも奥に引いてしまって緊張感が維持できないことがある。
それに比べてコレナは、ピアノにしても言葉の明瞭さ、響きのポジションは決して変わらない。
シャーロットのような硬さは全くないにも関わらず十分な深さがある響きである。
これは持って生まれた楽器に依存する部分が大きいのは言うまでもない。
鍛錬して身に着けられるものと、そうでないものをしっかり認識しておくことは歌う上とても大切である。

 

 

 

Canzoni napoletane

声自慢のテノールが歌うカンツォーネとは一味違う。
ブッファバスだからこその歌い回し、そしてここでも好き勝手にルバートを掛けるのではなく、
テンポをほぼ崩すことなく、それでいて自由な節回しを見せている。

自然に自由に歌っているように見えて、隅々まで緊張感の行き届いた見事なブレスコトロールで、
どんな発音でも全く響きに乱れがない。
高声歌手よりやっていることが地味で、中々その凄さは伝わらないが、
ブッファバスというのは生まれ持った楽器と、細部まで計算された節回しとリズム感、
どんな早口を歌っても言葉が埋もれない響きの統一と滑舌の良さが要求される。

それだけ大変だからこそ、安易にバリバリ鳴る良い声に走って、
手っ取り早く声だけでごまかしてしまう歌手が多いのだ。
ブッファはセリア以上に言葉の芸術である。
それを忘れてはならない。

 

 

 

ドニゼッティ ドン・パスクワーレ Cheti cheti immantinente
バリトン トム クラウセ

クラウセも素晴らしい歌手だが、コレナとの滑舌の差は歴然だ。
幾ら言葉が大事と言っても、こういう曲は良い声があってこそでもある。
ドニゼッティは悲劇より喜劇作品の方が優れていると私なんかは思ってしまうのだが、
それは間違えなくコレナのような名優がいて初めて成り立つのだ。

 

 

 

 

CD

 

 

 

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