Cloe Elmo (クローエ エルモ)1910年~1962年はイタリアのメゾソプラノ
コントラルトのような極太な声でヴェルディ~ヴェリズモの役柄を歌い、
ワーグナーのイタリア語での歌唱もしていたが、
特質すべきは太い声でありながら自在なディナーミク行うことができたことで、
なんとリヒャルト シュトラウスやブラームスの歌曲までイタリア語で歌っている。
このアリアは重くなりがちで、焦点の定まらない演奏が多い。
例えば、数年前まではドラマティックメゾを代表する歌手だったザージック
ドローラ ザージック
ザージックと比較してさへ圧倒的なパワーを誇り、キレの良さ、低音の鳴りも比較にならない。
エルモは低音を胸に落として歌っているような太さでありながら、響きの高さを失わない。
こんな低音を出せるメゾはまずいない。
このとんでもない声はカルメンで更にハッキリとわかる。
低音の響きに注目してほしい,
こちらも近代を代表するドラマティックメゾのオブラスツォヴァとの比較
エレーナ オブラスツォヴァ
オブラスツォヴァは全くレガートで歌えていないのに対して、
エルモは言葉が繋がり、
低音でもドスの効いた胸声ではなく、しっかり響きの乗った通常の声のまま処理している。
それでいながら、普通の歌手のように声が細くならず、胸声を使ったかのような太さで歌っているのだ。
まさに昨日の記事で取り上げたエルツェとは対照的に、エルモは絶対初学者が真似してはいけない歌手、
というか絶対できない歌手である。
通常なら、イタリア語でブラームスなんて歌うなよ!
と言いたくなるところだが、エルモの歌唱は圧倒的だ。
暗く太い声でありながら、決して重くなく、焦点が合っていて、無駄なヴィブラートもない。
こういう声で歌われてこそのブラームスではないか?
この人がマーラーを歌っていないのが残念で仕方ない。
イタリア語でここまでしっかりしたシュトラウスの歌曲の様式感を保って演奏できていることが驚きだが、
それにもまして見事な声のコントロールである。
カルメンやトロヴァトーレで聴かせる強さとは一変して非常に柔らかい響きであるが、
それでも響きの焦点は強い声を出す時と全く変わっておらず、決して揺れることなく真っすぐに声が飛んでいる。
これで、イタリア語だから声が揺れても良い。なんてロジックは存在しないことがわかる。
イタリア語だろうがドイツ語だろうが、伸ばしている音で無駄なヴィブラート(チリメンヴィブラート)
がかかるような歌手は発声がそもそも間違っているのである。
テノール ベニアミーノ ジーリ
太く重い声で好き勝手に歌う演奏が、
如何にヴェルディの音楽が示す本質から外れているかということをこの演奏は教えてくれる。
エルモもジーリも軽い響きで歌っているにもかかわらず、凄まじい集中力と音楽の緊張感である。
エルモほどの超ド級の楽器を持っていても、こんな軽くアズチェーナを歌うのだから、
日本人が太く重く歌って良い道理など存在しない。
もしそんな声でヴェルディを歌うのならば、もはやそんなものは本当のヴェルディのオペラではなく、
似て非なるものであると言えよう。
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