ヘルデンテノール閑散期を支えた真のトリスタンの声を持ったテノール Spas Wenkoff

Spas Wenkoff (スパス ヴェンコフ)1928年~2013年はブルガリアのテノール。
ヴィントガッセンが退いた後の1970~1990年代辺りはヘルデンテノール閑散期と呼んで良いと思う。
ペーター ホフマンやルネ コロといった本来リリックな声でオペレッタの方が向いてるような声の歌手が、
その時代を代表するヘルデンテノールとして多くの録音を残しているを見ればわかる通り、
このあたりからヘルデンテノールの定義はあってないようなものとなってしまった感がある。
そんな中、暗く重いバリトンのような音色でトリスタンやタンホイザーを歌って存在感を示したのがヴェンコフである。

 

 

 

バイロイト1978 タンホイザー(全曲)

(ローマ語り2:43:40~)
重く暗い音色ではあるが、決して太く作ったりはしておらず、
中音域はどちらかと言えばかなり軽く歌っている。
必要以上に中低音を太い声で歌ってしまうと高音に影響が出る、
結果として、音域や発音で響きにバラつきが出てしまうということが多くの歌手で見られるが、
ヴェンコフはこれだけ重い声でありながら、低音~高音まで音色も響きも変わらない。
ヴェンコフの発声が理想的であるとは言わないが、
少なくとも彼自身に合った発声で歌っているのは確かだ。

 

 

 

バイロイト1976 トリスタンとイゾルデ(2幕)

カルロス クライバーが指揮をしたトリスタンと言うことで、
海賊版としてCDが出回っている録音。
クライバーと言えば、近代最高のカリスマ指揮者として現在でも熱狂的な信者がいるのだが、
クライバーがトリスタンをグラモフォンに録音した時に起用したのが、
ルネ コロとマーガレット プライスだった。
中でもプライスは一度もイゾルデを歌ったことがないのに録音に起用したのである。

一方、このライヴ音源は、ニルソンに似た声質を持つ優れたドラマティックソプラノのリゲンツァと
ヴェンコフである。
なぜこの二人をそのままグラモフォンの録音に起用しなかったのか?
という疑問は時々目にするところだが、
プライスを採用したのがクライバーの意見だという記事も読んだことがあるので、
個人的にクライバーという指揮者が歌を聴く耳が本当に確かだったのかは疑問を持っていたりする。
コロのローマ語りはこんな感じ

 

ルネ コロ

コロの方が全然軽い声にも関わらず、必要以上に強い声を出そうとするあまり、
ヴェンコフよりも高音がキツそうである。
更に、コロは音域に寄って響きのポイントが変わってしまっている。
コロが深く声を作ろうとして奥で発音しているのに対して、
ヴェンコフは前で発音している。
軽い声で重く太く歌うコロと、重い声で軽く歌うヴェンコフ。
深さがあっても発音のポイントは常に前になかればいけないことがこの比較でもわかると思う。
「軽く歌う」というのは、持ち声に対して、最も楽に歌える高い響きで歌うことで、
当然、元から大きな楽器を持って生まれた人もでも実際に軽い声を出せ。ということではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年 ベルリン

ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー(終幕)

 

 

(優勝の歌 1:40:00~)
ヴェンコフの歌唱で気になるところは、上の前歯を見せて歌うこと。

 

 

 

上のGの音を”a”母音で歌っているところ

 

響きがあと一歩上がらず、やや喉声っぽさを感じる原因は恐らくここである。
優勝の歌を見て頂ければわかる通り、かなりの部分をこんな感じのフォームで歌っている。
Gまではそれでも安定しているが、Aは勢いになっているし、最後のAで伸ばす部分は完全に力で持って行った感じだ。
そういう部分を見ても、ヴェンコフはもっとテッシトゥーラの低い作品が向いていることは間違えない。

 

 

 

 

 

1981年 ダラス

ワーグナー ヴァルキューレ(全曲)

 

 

マイスタージンガーのヴァルターやパルシファルよりやはり声に合っているのはジークムント。
バリトン上がりのテノールが一番対応し易い役の一つがこのジークムント、
逆に言えば、軽いテノールが年齢と共に声が重くなっても中々適応できない役でもある。

もう一つヴェンコフの歌唱の問題点を挙げるなら、
どんなセリフでも子音のスピード感が変わらないこと。
そのため、どこか棒歌い感がどうしても出てしまう。
声は立派だが、歌がいまいち上手くない。
そんな印象を持たれてしまう歌唱なのである。
歴史的に見ても、これだけ重く暗い音色で、高音になっても音色が変わることなく出せたテノールは
ラモン・ヴィナイ位しか思い当たらない。
ほぼ同時代に活躍したジョン ヴィッカースも重く暗い声ではあったが、
彼の場合はかなりアペルトな横に開いてしまった声で、どうしても米語発音の影響が歌に出ている。

 

 

ジョン ヴィッカース

ヴァルキューレ Winterstürme

 

”e”母音なんかはかなり酷いものである。
それに比べて、ヴェンコフは母音の発音に殆ど癖がない。
響きが整っているヴェンコフと全体的に響きが平べったいヴィッカースとの差は大きいと個人的には思っている。

 

このように、確かにヴェンコフの歌唱には問題点もあるのだが、
その問題点が、果たして他の同時代に活躍したヘルデンテノールと比べて致命的かと言われれば、
全然そんなことはないし、どちらかと言えば優れた点こそもっと評価されるべきだと私は思っている。
これだけドラマティックな役を歌うのに相応しい声を持った歌手はそういないので、
この声だけでも十分に敬意を払うに値するものではないだろうか。

 

 

 

CD

 

 

 

 

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