Davinia Rodríguez (ダヴィニア ロドリゲス)は1980年スペイン生まれのソプラノ歌手。
まだ20代の時には日本にも何度か来日していたのでご存じの方もいるかもしれない。
スペインと言えば、3大テノールの内2人を輩出したとは言え、それ以外にはAクラウスやMカバリエ、Tベルガンサを除き、
超一流と見なされている歌手を輩出していないのではなかろうか?
だが、それでも良い歌手は当然いる訳で、このロドリゲスは高音の響きの美しさは現代のソプラノでもトップクラスだと私は思っている。
声その物で勝負するのではなく、美しい響きで聴く者を魅了できる歌手は中々いない。
このような歌唱は、欧米や韓国と比べて楽器に恵まれない多くの日本人ソプラノにとって参考になるのではないだろうか。
そこまで声量がある訳でもなく、中低音の鳴りも決して太くない。
それでも一本筋の通った一直線の響きは低音でも高音でも本質的には変わらない。
低音を太くしたり、無理やり鳴らしにいかず、高音と同じ高樋響きで歌えていることが何より素晴らしい。
だから、高音から低音に大きな跳躍があっても、けして籠った響きになったり、響きの質が変わったりしない。
重要なのは太さや大きさではなく、いかに全ての音域を同じ質の響きで歌えるかである。
そういう意味でもこの人の歌唱は歌を勉強している人には大変勉強になるだろう。
同じくトゥーランドットからだが、こちらの方がドラマティックな曲のため、
フォルテで吠える歌手が耳につくアリアでもあるが、
ロドリゲスの場合も例外ではなく、こっちのアリアだと声に力みが見られる
中音域がマリア カラスのようなやや奥まった不自然な響きになることがある。
この響きが私個人は苦手なのでカラスが好きにはなれないのだが、好きな人にはツボなのではなかろうか?
高音もフォルテだとピアノで聴かせるような響きの高からやや落ちている。
ヴェルディを歌うとよりカラス的な響きであることがわかるのではないだろうか?
高音のピアノの表現から声の響きまで似過ぎていて驚く、
似たような声では、既に全盛期は過ぎてしまったがアリベルティという歌手がいる
Lucia Aliberti
初めてアリベルティを聴いた時は、カラスみたいな響きの歌手がいると思ったものだが、
改めて聴いてみると、ロドリゲスの方が間違えなく近い。
アリベルティは本来ロッシーニやベッリーニを得意としているソプラノだが、
ロドリゲスはヴェルディやヴェリズモ作品が中心のレパートリーであるにも関わらず、
ベルカント物をレパートリーの中心に持つ歌手に劣らないアジリタの技術を持っているのはたいしたものである。
こちらは他の動画より最短でも2年昔の演奏なので、歌にも若さがでている。
面白いことに、若い時の方が低音を太く歌っているのがわかる。
中低音をいかに鳴らさずに自然に言葉を響きに乗せて飛ばすことができるか、
これが結局のところ多くの歌手にとっての課題なのだと思う。
高音がいくら出ても、歌う音符の大半は五線の中に納まる高さの音である以上、
高音より中低音が重要なのは明らかなのだが、大抵の聴衆は聴き所の高音をどう歌うかに注目するし、
当然そこの質を高めたいと演奏する側も考えるのは仕方がない。
だが、こういうアリアで全ての音を力一杯歌うと全くミミというキャラクターには合わない歌になる。
ロドリゲスのこのアリアを聴いて、衰弱していくミミの運命が想像できるだろうか?・・・
さて、上記のような視点で聴いた時、このアリアはミミより全然合っている。
何と言ってもテッシトゥーラが高い方がロドリゲスにとって表現の幅が格段に広がるからだ。
これが声に合ったレパートリーを歌うということとも繋がる。
日本の声楽教育は、何かと声質や最高音ばかりに注意を払って学生の歌うレパートリーを先生が決めるのだが、
それと同じか、それ以上に重要なのがテッシトゥーラである。
ロドリゲスの場合、言葉による表現にはあまり長けていないが、
高音のピアニッシモの表現は大変素晴らしい。
こういう長所が生きる曲では魅力のある歌手である。
このように、美しい響きでアジリタの技術もしっかりした歌手なのだが、
全体的に歌い過ぎてしまうため、曲によってはクドくなってしまう。
ディナーミクとは別の意味で、歌に緩急が付けばもっと素晴らしい歌手になるだろうし、
十分に技術は持っているので期待したい。
後はレパートリーだが、
スケジュールを見る限り、ベッリーニの「海賊」やドニゼッティの「ロベルト・デヴリュー」が予定されているのを見ると、
ヴェルディやプッチーニより軽い方向へシフトしているので、好ましい傾向である。
このまま自分の声にあったレパートリーを歌い続けていけば、理想的なヴィオレッタになれるかもしれない。
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