Juanita Lascarro( ファニータ ラスカーロ )はコロンビアのソプラノ歌手。
モーツァルトのフィガロの結婚なんかにも出演はしているが、近現代の作品で存在感を示すソプラノ歌手。
コロンビアのソプラノ歌手で近現代物に強いというだけでインパクトがあるのだが、
声にも歌い回しにも癖がなく、どんな作品でも高い適応性が可能だろうと思わせる、
声質は違うが、マルリス ペーターゼンのようなタイプではないかと思う。
ボフスラフ マルティヌーという作曲家はご存じない方も多いと思う。
近現代のチェコの作曲家で、一番有名なのは恐らく交響曲6番ではないかと思うが、
個人的にはチェロ ソナタやピアノ協奏曲3番がお勧めである。
それはさておき、本来チェコ語で歌われるべきところドイツ語歌唱で歌っている。
どうも今年の9月にフランクフルトでもこの演目が演奏されて、ラスカーロが歌うようなので、
コルンゴルドの死の都が比較的演奏機会が増えたように、この作品も今後は広く演奏されていくようになるかもしれない。
肝心なラスカーロだが、
声は強めのリリコレッジェーロで、やや硬めながらも決して押したような声ではなく、
発音もしっかりしているし、響きの解像度と呼べば良いのか、全く籠ったり引っかかったりする感じがない。
この曲では、歌よりオケに耳がいってしまいがちなので、他の曲で彼女の声をじっくり聴いてみよう。
狂乱以上に発狂してる曲です。
陳銀淑は韓国の女流作曲家で現在ベルリンに住んでいるそうですが、
声楽作品よりオーケストラ作品の方が有名な方のようだ。
とりあえず人の声を人の声だと思って扱ってないのがよくわかるのだが、
それをこれほど完璧に歌ってしまうラスカーロが恐ろしい。
では、有名な曲を歌うとどうなるのか?
どの音域、言葉でも均等な響きで高いポジションが維持できているため、
音域によって声が大きく聴こえたり、全く鳴ってないように聴こえたりということがない。
軽く歌う。とはこういうことで、太くてデカい声ではなく、細く無駄なモノをそぎ落とした響きこそが本物である。
ダムラウの演奏と比較しても、ラスカーロの響きの質の高さがわかる。
Diana Damrau
ダムラウは”a”母音で特に響きが落ちる傾向にある。と言うか鼻に入り易い。
録音状況がラスカーロのは良くないので、どっちの演奏が良い悪いということを比較するつもりはないが、
ダムラウは高音と低音で響きの質がかなり違ったり、母音によっても微妙にポジションが変わっているのは伝わるのではないだろうか。
コロンビアの現代作曲家、ポサダの作品の初演映像
中低音の音質もよく通る響きで品格があり、オラシオン(祈り)のイメージに合致する。
コロンビアの歌手がこれだけ歌えるというのは失礼だが驚きだ。
それと同時に、良い歌を歌うのには国籍や人種は関係ないことが改めて分かった。
私には全く何を歌っているかも分からないし、印象に残る旋律がある訳でも、超絶技巧で圧倒する訳でもない。
それでも、この演奏からは訴えかけてくるものが感じられる。
そして、同国の作曲家の作品に敬意を持ってラスカーロやピアノのALEJANDRO ROCAが取り組んでいるのがよくわかる。
この演奏はコロンビア人の彼女等だからこそできる演奏であろうことを考えると、
西洋の音楽を学んでいようと、日本人だからこそできる表現というのはあるはずだ。
それを追求せずして、西洋人の物まねばかりしていても敵う訳がないのかもしれない・・・。
こちらは他の演奏より15年近く若い時の演奏。
他の演奏と比較すると、勢いだけで持っている楽器をやみくもに鳴らしているだけにように聴こえる。
常に100%の力で全力投球するような歌唱で、歌っている当人だけが充足感に満たされるダメな歌い方の典型である。
これが数年で以下のような演奏が出来るようになるのだから驚きだ。
素晴らしい声を持っていても、数年後にはフォームを崩してボロボロになっている人もいれば、
こうやって別人のように上手くなる人もいる。
こういう部分から見えてくるのは、自分の歌がどこに向かうべきか?
ということを正しく見極められることができる能力こそ、実は長く歌い続けていく上では一番重要なのかもしれない。
ラスカーロの歌唱からは学ぶべきことが沢山ありそうだ。
CD
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