Nikolay Borchev (ニコライ ボルシェフ)は1980年ロシア生まれのバリトン歌手。
モスクワとベルリンで研鑽を積み、バイエルンやベルリンといったドイツを中心にモーツァルトオペラやRシュトラウスのオペラを歌っているようで、
多くのロシア人バリトン歌手のような、パワーでゴリ押しするヴェルディバリトンっぽいけど違うバリトンというのとは一線を画している。
オペラだけでなくコンサート歌手として優れた演奏を披露し、リートも丁寧に歌えるという、ロシア人には今まで見なかったタイプのバリトンである。
ソプラノ Danielle de Niese
ノリーナを歌っているのは、今度の新国のドン・パスクワーレでもノリーナを歌う予定で、
大野和士が「世界最高のノリーナ」と言ってしまった人。
その発言依頼、大野の女声を聴く耳には疑念を持っているのだが、それはおいておいて、
ボルシェフは軽快で明瞭な語り口に見られるしっかりした技術と、柔らかく温かみのある音色が、
良い意味でなんともロシア人らしくない。
”o”母音なんかは特に鼻声になってしまうところがあるのだが、それでも純粋に歌が上手い!
多田良い声を聴かせるだけの歌手には絶対にできない歌い回しは、ブッファ作品を歌ってこそ栄えると意味でも、
モーツァルトが得意なのはうなずける。
魔王と坊やの声の使い分けがされてないのがどうも個人的には違和感があるのだが、
父親とナレーションにあたる部分の声は実に合っている。
もっと深くドラマに踏み込んで表現を磨いて欲しいところではあるが、勢いだけでオペラ歌手が有名なリートを歌いました。
という感じの演奏ではなく、芸術歌曲に対して敬意を持って歌っているのは伝わってくる。
高音はちょっと響きが浮く感じがあるのだが、低音は無理に鳴らさなくても魅力的な声で歌えているので、
ブラームスやマーラーでこそ彼の声は更に生きるのではなかろうか?
こちらの方が魔王よりは合っているが、ピアノの表現ではまだまだ技術不足が露呈している。
特に最後の転調してからは、バリトンにはピアノで歌うのは中々大変な音域なので、
どうしても声を被せ過ぎてしまって不自然な声になってしまっているのは残念だ。
連作歌曲の中で最も有名な作品なので、今更有名歌手の名演と比較してどこがどう物足りない。
と言うつもりはない。それどころか、逆にここまでメゾフォルテとフォルテだけでほぼ歌い通しても、
この歌が成立していることに驚いている。
<歌詞>
Fremd bin ich eingezogen,
fremd zieh’ ich wieder aus.
der Mai war mir gewogen
mit manchem Blumenstrauß.
Das Mädchen sprach von Liebe,
die Mutter gar von Eh’.
Nun ist die Welt so trübe,
der Weg gehüllt in Schnee.
Ich kann zu meiner Reisen
nicht wählen mit der Zeit,
Muß selbst den Weg mir weisen
in dieser Dunkelheit.
Es zieht ein Mondenschatten
als mein Gefährte mit,
und auf den weißen Matten
such’ ich des Wildes Tritt.
Was soll ich länger weilen,
daß man mich trieb’ hinaus,
laß irre Hunde heulen
vor ihres Herren Haus.
Die Liebe liebt das Wandern,
Gott hat sie so gemacht,
von Einem zu dem Andern,
Fein Liebchen,gute Nacht.
Will dich im Traum nicht stören,
wär schad’ um deine Ruh’,
sollst meinen Tritt nicht hören,
sacht,sacht die Türe zu.
Schreib im Vorübergehen
ans Tor dir: gute Nacht,
damit du mögest sehen,
an dich hab ich gedacht.
<日本語訳>
見知らぬものとして私はやって来たが,
再び見知らぬものとなって立去って行く.
五月は数多くの花束で
私に好意をよせてくれた.
あの娘は愛を語り,
母親は結婚のことさえ話していた.
いま世界は暗く悲しく,
道は雪につつまれている.
旅立ちに私は
時を選びなぞできない.
この暗闇の中で
みずからに道を示さねばならない.
月光がうつしだす影がひとり
私の道づれとなってついてくる.
そして白い草原に
私は野獣の足跡を探し求める.
人びとが私を追いやったというのに,
どうしてこれ以上とどまらねばならぬことがあろう?
何をまちがったのか犬たちが飼主の家の前で
遠吠えするにまかせておこう!
愛はつぎつぎと
うつり行くのがすきなのだ.
神がそうお創りになっている.
かわいいひとよ,おやすみ!
私は夢を見ているお前を妨たげたくない,
お前の安らぎが大切なのだ.
私の足背をお前に聞かせはしない,
そっと,そっと戸口へ歩みよる!
通りすぎながら,お前の家の門に
「おやすみ」と書きしるす.
私がお前を思っていたと
わかってくれるように!
考えてみれば、ドイツ人以上に寒さを知っているであろうロシア人が冬の旅を歌う。
というのはシチュエーション的には決して不自然なことではない。
そんな事を思いながら聴いていると、2番・3番の歌詞で感傷的になっている暇もなく、
ズンズン先に進んでいく表現は案外悪くないじゃないか?
と思えてくる。
発声的な問題はやっぱり最後
「ans Tor dir: gute Nacht」の”gu”で完全に”u”母音が潰れてしまう。
これはDより上の音になってくると、喉が上がってしまって空間が狭くなり響きも貧しくなっていることの現れだ。
「an dich hab ich gedacht」では一つ一つを慎重に歌い過ぎて流れが完全に止まっている上に、
最後の”dacht”は音程もぶら下がっている。
こういった部分が改善できれば、今後はリート歌手としても優れた演奏ができるのではなかろうか?
因みに、無茶苦茶遅いテンポでこの曲を歌っているのがテノールのアライサで、
ボルシェフが5分ちょっとなのに対して、アライサは7分半掛けて歌っている。
この両極端な演奏を聴くと、シューベルトの音楽の奥深さ、多用な解釈を抱擁できる自由さに改めて畏敬の念を覚える。
そういう意味では、個人的に楽譜に書かれていることだけを追求する行き過ぎた原点主義は、
正しい解釈は一つ!
という究極的な正しい演奏と間違った演奏への分断に感じて好きにはなれない。
どこかの見かけは子供で中身が大人の名探偵が言っている言葉とは違って
「真実は決して一つではない!」と思うのだがいかがだろうか。
Francisco Araiza
この人ほどラテン人らしからぬ感覚で歌う人は珍しい。
イタリアオペラよりリートが優れているメキシコ人がいることを考えれば、
オペラより宗教曲やリートが得意なロシア人がいても不思議ではないか!?
正確にセンスよくロッシーニを歌えるロシア人というのも珍しい。
「solu」という言葉は鼻声になり易いのだが、「altissimus」や「christe」の響きは良い。
比較的重量級のバスやバリトンが歌うことが多い曲なので、ここまで声で一方的に押さない演奏は珍しいかもしれない。
やはり”i”母音に芯がしっかりあって、喉が上がった声でもなく、
多くのバスやバリトンが陥り易い、高音の”i”母音が”e”と”i”の間のようなだらしない響きにならないだけで印象が全然違う。
トゥマニャンの演奏と比較すると、太いバスが歌うのと、そこまで重量級ではないバリトンが歌うので、
どちらがロッシーニの音楽らしさが伝わる演奏か?ということを考えさせられる。
Barseg Tumanyan
伸ばしている時の”i”便が完全に”e”になることがある。
こう聴いても、「アルテッシムス」にしか聴けない所もあるし、
声が良ければ発音を崩しても良いのか?という部分も考えなければいけない。
正確には、喉が締まり易い発音で高音を出す時は、バレないように発音をごまかすのがテクニックであって、
明らかに違う発音や、子音をすっ飛ばす母音唱法では、現代は正直やってはいけないと思う。
このように、ボルシェフは粗削りな部分も多々あるにせよ、
まだ40歳手前でバリトンとしては十分成長が見込めるだけに、
これからどんなレパートリーを選び、どのような演奏スタイルを突き詰めていくのか、
色々なレパートリーをこなせるだけに中々興味深いバリトン歌手である。
CD
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