Natalie Dessay(ナタリー デセイ)1965年~は、フランスのソプラノ歌手。
花形とも言える高音自慢、超絶技巧自慢のソプラノ歌手の中でも一時代を築いたのがこの人。
日本語の読み方は、デッセーとかドゥセイとかドゥセとかデセイとか色々ありますが、一番見かける読み方を一応採用しました。
因みにタイトルは、
あしたのジョーに出てくる、カ-ロスというボクサーが、ホセに俳人にされ、
その変わり果てた姿を見たジョーが、ショックに打ちひしがれて言ったセリフ
「あの稲妻みたいなパンチを打つカーロスが・・・」の引用です。
一応デセイは2013年にオペラの舞台から引退していることになっているはずなのですが、それでも現在まで演奏活動はしていて、2017年頃にシューベルトの歌曲を歌ったCDも出していたりしたのですが、
私はそのCDを試聴して、あまりに衰えてしまった声に、カーロスを見たジョーはこんな心境だったんだろうな。というのを感じた訳ですね。
上手いとか下手とかじゃなくて、ただただ歌声が痛々しいなんて感じたのはこの時が生まれて初めてで、恐らく今後もそうある体験ではないでしょう。
ということでこのタイトルになりました。
普段なら、このレベルの歌手は歌唱スタイルや発声の遍歴を分析していくのですが、彼女の場合は
◆1990年代の無傷の状態、いわゆる全盛期
◆2000~06年頃の声帯手術を繰り返した時期
◆それ以後、
という感じに分けることができるでしょう。
喉を壊しているという結果がある以上、若い時の演奏を「発声に問題がある」
と切り捨てたところで意味がありませんから、
それより、手術を繰り返しながらも、10年以上活動できたことの方が称賛すべきことでしょう。
声を失いながらも、どのようにマイナーチェンジして歌い続けているのか見えてくれば面白いかなと思います。
ドリーブ ラクメ ’Bell Songの一部
23歳でコレですか!
面白いのは口の開け方。
殆ど開けずに、下唇が常に脱力されているのが印象的です。
口を開けないことの良い点は、響きのポイントがブレにくいことですが、
逆に問題は使える空間が狭くなることで、高音以外ではそれほどの魅力がない。
と言うこともできるかもしれません。
モーツァルト フィガロの結婚 L’ho perduta, me meschina
フィガロの結婚で、バルバリーナがこのアリアで主役を食う。
なんてことがあったら、歌手としてはこんな面白いことはないだろうな。
と思ったりする訳ですが、デセイはやっぱりあまり高音を使わない曲ではそれほどの魅力を感じません。
全体的に中低音が鼻に入り勝ちな印象を受けます。
それでも声質の透明度や言葉の明確さは突出したものを感じますね。
オッフェンバック ホフマン物語 Les Oiseaux dans la Charmilleの一部
世界的に注目を集めたのが恐らくこのオランピアだと思います。
デセイの声は、まだ子供らしさの残る中に成熟した技巧があって、
未完成であるが故の美しさ、危うさの中にあるわくわく感を聴く者に与えるような、
単純な良い声、上手い歌とはちょっと違う部類な気がします。
故障を繰り返す彼女の未来を私達が知っているが故に、余計に猛スピードでぶっ飛ばして走った先にガケが待っていてもなお、このスピードの魅惑には抗いがたい魔性の力が宿っている。そんな感じでしょうか。
バーンスタイン キャンデヒード Glitter and be Gay
全部の響きが鼻に入るか入らないかのギリギリのポジションにあって、
響いてるのが完全に顔の前面だけなんですよね。
低音になるとどうしても鼻に入り気味な傾向がまだあります。
歌を習っている方なら、息を回す「ジラーレ」する。
という言葉を聞いたことのある方もいるかもしれませんが、
多分デセイはそういうことはしていないと思います。
ドゥヴィエルと比較すると口の開け方や響いている部分の違いがよく分かります
Sabine Devieilhe
ドゥヴィエルの方が奥から回している響きで、
鼻付近ではなく、上の歯から硬口蓋に掛けてのデセイより広い範囲で響いているはずです。
同じようなタイプのフランス人ソプラノということで、ドゥヴィエルはデセイの後継者的な扱いで比較されることもあるのですが、こうやって声の出し方や響きを念入りに見ると、レパートリーは同じでも歌い方は全然違うということが分かって頂けるかと思います。
ドリーブ ラクメ ’Bell Song
23歳の時よりも空間を広く使えるようになって、
響きに広がりと柔らかさが出てきました。
録音状況が全然違うので単純な比較は難しいですが、
声そのものにはあまり変化が感じられないような気がします。
モーツァルト 魔笛 O zittre nicht
この時はあまり調子が良くなかったのか、前半のカヴァティーナの部分で響きが乗らず、レガートで歌えていません。
ツェルビネッタのようなアクロバティックな曲だと粗が目立ちにくいのですが、
モーツァルトのゆったりしたカンタービレの部分というのは、一握りの人しか上手く歌えないのではないか?と思わせる難しさがあります。
後半のカバレッタは水を得た魚のように生き生きと歌っているのですが、
基本的に中低音が得意ではない歌手なのだということは間違えないでしょう。
トマ ハムレット A vos jeux
01-02シーズンで故障に見舞われているので、この2000年7月のリサイタルは、
故障直前の演奏と言っても良いのではないかと思います。
デセイのオフェーリアを初めて聴いた時は寒気がしました。
完全に憑依されているような、あちらの世界に片足突っ込んだかのような表情で歌う様は狂気としか表現しようがない。
当時学生だった私はそんな感覚で、買ったDVDをやきまくって大学で配ってデセイファンを声楽科の外に広めていたのは良い思い出です(笑)
しかし、それ以外にも、やっぱり命削って出してる声なんですよね。
ラクメに比べると明らかに喉に負担が掛かってるのが分かる声で、
もっと細い響きで出している分には良かったのですが、劇的な表現を求めた結果、
喉に負荷が掛かってる声になった。
大きい声、劇的表現を求めると陥り易い恐ろしい罠に、この地点で片足が取られていたのかもしれません。
ドニゼッティ ランメルムーアのリュシー Je Dois Quitter la Terre (フランス語版)
一度喉を壊した後の演奏です。
明らかに低音の声が太くなりました。
そして、やたらめったら最高音を上げることもしなくなりました。
しかし、この後も度々手術をっ繰り返すことになってしまいます。
オッフェンバック ホフマン物語 Les Oiseaux dans la Charmille
2005年は一連の喉の故障から復活した年と言われています。
1992年の時の演奏とここで比較して頂けるとわかると思うのですが、
1992年は響きのポイントが鼻付近の一部だったのに対して、
2005年はもっと深さがでて奥行のある響きになり、
全く鼻声になることもなくなりました。
実は、故障した後の方が中低音の響きは目に見えて豊になっています。
この演奏だけ奇跡的に、と言ったら失礼ですが、故障前を凌ぐ演奏をしていると私は思っているのですが、何が起こったのだろう・・・。
ここで改めてデセイらしさとは何だったかを考えると、細くややあどけなさのある声でありながら完璧な超絶技巧を決め、アクセル全開で最高音に突っ込む。
みたいな繊細さと大胆さを併せ持った、聴いている側に何をするか分からない緊張感を与えながら、期待した結果も出す。それが彼女の演奏の魅力でもあったのではないかと思います。
それが故障をした後は大人の演奏になり、大体どんな演奏になるかの予想ができてしまうようになりました。
それは超絶技巧を売りにして、どんなことをしでかすか分からに楽しさがあった部分を丸々消し去ったようなものなので、聴衆が期待するナタリー デセイという歌手はここで一度死んだいう表現をしても言い過ぎではないように思います。
ベッリーニ 夢遊病の女 Ah! non credea mirarti
この演奏はメトのガラコンサートだったと思いますが、
学生時代にテレビで見ていて、デセイはもう難しいかな。と思ったのはここでした。
今にして考えると、
故障後声が太くなったのは、歌い方を見直したことも恐らくあるでしょうが、
大きな原因はステロイドなのだろうと推測できます。
そう考える理由は、声が重くなってしまって明らかに響きのポジションが下がっていることで、かなり喉声に近いところまで落ちています。
一年前の2005年のオランピアとは別人の声です。
一番深刻な状況が分かるのは最後のカデンツァで、
高音から低音に下行してくるとき、ある部分で急に声質が変わります。
こんなことは今までなかったことで、楽器に柔軟性が失われてきている証左と言えるでしょう。
更に喋り声も、下記の映像のときと、2011年頃では別人のようになっています。
もしデセイの復活までの舞台裏に興味がある方は、
下記のような映像もあります。
フランス語ですが英語字幕はついています。
デセイの声帯が見れるという意味でも超希少映像だと思いますし、
35分位~の歌声と喋り声の違いについての会話や、リハビリの様子は歌を勉強している方には興味深い内容なはずです。
デセイほどの歌手が口のフォームだけで声を出さず喋る練習をしたり、
唇と舌の動作を念入りにチェックしているのですから。
因みに、日本の音大ではこんな指導する人は見たことありません。
ヘンデル ジュリオ・チェーザレ Da Tempeste
2006年でもうだめかと思ったら、この演奏はかなり良くなっているんですね。
繊細な声のコントロールはできなくなっていますが、体当たりの感じがデセイらしい演奏で個人的には嫌いではありません。
シューベルト Gretchen am Spinnrade
衰え切ってからシューベルトは歌ってほしくなかった。
言葉の重みと、子音の密度が決定的に不足しており、
雰囲気だけで歌っているのがはっきり言って腹立たしい。
なんでオペラの舞台を退いてからシューベルトを歌ってCDにまでしてしまったのか・・・。
オペラは歌えないけど、歌曲は歌えます。
みたいなリート軽視が感じられる。
本人にはそんなつもりは当然ないのだと思いますが、
結果として酷い演奏になっていることは疑いようのない事実です。
総じてデセイは好きな歌手なのですが、
最後の最後でフランス歌曲じゃなくてシューベルトに手を出した理由が全然わかりません。
でも、声帯を傷めてからの復活劇を見ると嫌いにはなれない。
むしろハマった時の高音の美しさは他の歌手にはないものがあり、
歳を重ねても声には若さがあって、改めてナタリー デセイという歌手の持つ強い個性と存在感に気付かされました。
それに、ハイソプラノのまま50歳を過ぎるまで歌い続けているのですから、
30代半ばで声帯を傷めたことを考えれば、想像を絶する努力をされてきたのでしょう。
そんな彼女は、次の世代にも語り継ぐだけの魅力がある歌手だと言えるのではないでしょうか。
これが本当にすさまじい映像で、今見ると、
「この稲妻みたいなコロラトゥーラがあんなシューベルトに・・・」
と切ない気持ちになることでしょう。
お久しぶりです。
いーです。
私もナタリーデセイのファンで彼女の最初のCDを買って以来、新しいCDが出る度に買っていました。
今でも彼女のCDを持っています。
コロラトゥーラ声法を最初に知ったのはマリアカラスからで、その後デセイを聴いてたからこのタイプのソプラノばかりを聴くようになりました。
(正直偏りすぎてしました(^_^;))
いーさん
カラスからデセイとは随分とタイプが飛びましたね(笑)
好きなタイプを深堀するのは良いと思いますよ!
今はどんな方がお気に入りなんでしょう?
夜分遅くすみません。
私が最初に買ったマリアカラスのCDが「 コロラトゥーラオペラアリア集」で、そこからデセイ、グルベローヴァ、スミジョー、 サイ・イエングァン、佐藤美枝子、イン・ファン、アンドレア・ロストなどを持っています。
最近気になるのはプリティ・イェンデです。
後はカウンターテナーも好きです。
ただ私は根っからのオペラファンではなく、気になる歌手がいたらどんなジャンルの歌手でも興味をもちます。
ちなみにアイドルでは、山口百恵、中森明菜、本田美奈子
歌謡曲ではちあきなおみ、島津亜矢、
まあ~・・・・・・いろいろいます。
もし取りあげてくださるのでしたら、一人はアンドレアロスト。もう一人は中国のクロスオーバー&ポップスの周深と言う男性歌手をお願いします。
すみませんわがまま言って。
いーさん
なるほど、ジャンルを問わず様々な歌手を隔たりなく聴いていらっしゃるんですね。
ロストは50歳手前の今でも美しいですね。
ただ、私の感覚として歌唱では世界的にトップクラスかと言われるとちょっと難しいのではないかと思います。
周深という方は、まだ声変わりしていない少年のような感じの声ですね。
クダイベルゲンのような圧倒的な技術と才能がある歌手というより、持っている楽器が特殊といった印象を受けました。
読んでくださりありがとうございます。
アンドレアロストのCDは、ランメルモールのルチアの1834年の初演版のCDを持っています。
あの~申し訳ないのですが、アンドレアロストはもうすぐ60歳になります。(57歳)
それと周深のについては彼を知ったのは昨年の12月頃で、ちょうどディマシュの動画を見ようとしたらあなたのおすすめで彼を知り、そこから周深の動画もよく見るようになりました。
今、中国の歌番組で他の歌手と一緒に歌を競う番組に出ています。
その番組には日本代表に MISIAが出演していて、ちょっと驚いてしまいました。
周深について、いつまで経っても使いこなせないタブレットで(本当パソコン、タブレットは・・・・・・(._.))検索してみました。
彼は27歳になりますが、161センチと小柄で、しかも変声期前のように高い声のため学生時代はよくからかわれていたために、歌は好きだったものの、歌うことはあまり無かったそうです。それが学校の中の歌のコンクールで注目を浴びそこで自信がついて、ウクライナの リヴィウ音楽院に通うことになったそうです。
いーさん
ロストの年齢。失礼いたしました。
単純に50と60を間違えました。
若い頃の演奏と最近の声を聴いてもそこまで大きく変わらなくて驚きました。
最近も日本でリサイタルされていましたし、
コロラトゥーラを売りにしている歌手は、デセイの例を見れば分かる通り消耗が激しい中で良く声を保っていますね。
もうひとつ返信を。
色々な音楽聞きますが、器楽曲よりもボーカル曲がほとんどで大体7~~8割ぐらい女性ボーカルが多いです。
そして、なぜかあまりゴスペルが好きではありません。
そう言えば3月3日のアンナエルハシェムの記事の最後にパチンコの事を書かれていましたが、所詮パチンコ屋なんてそんなところですから・・・・・本当に。
何せあそこはパチンコ業界の8割が在日韓国、朝鮮ですし本当に害でしかない。
東日本大震災の時も2日目には営業していたらしいとか。
そうですね。
石巻だかで、市民の外套を作って欲しい。
という要望を予算がないから無理だとはねつけた挙句、パチンコ屋は改装されたとか。
そもそも日本の法律上、パチンコ屋の換金は存在自体が違法ですからね。
デセイは、非常な美声と超高音、そしてコロラトゥーラの技術を持ったが主ですね!
私も彼女のデビューCDで、声の美しさに驚きました。
彼女の特徴は、日本女性並みに小柄で、ヨーロッパ人にしては胸郭も小さめな所から生まれているのではないかと推測します。
肺活量自体が大きくないので、ワンフレーズを息継ぎしないために息を節約→息がジラーレできない→声が成長しない→技術の未熟さがかえって魅力的に聞こえる
要するに、呼吸法が身についていないために下半身が使えず、喉に負担がかかっているわけです。
この辺りが、歌っているときの上半身の硬さに現れています。
グルベローヴァやイルムガルト・ぜーフリート等の上半身のリラックス加減と比べると、違いは一目瞭然です。
でも、声帯の鳴りが異常に良く、機敏に動けるため、それでも歌えていたわけです。
そして声の響きが前というか鼻に集まりやすいのが有利に働いていた、と。
CDではきれいに聞こえますが、生演奏では、発声の問題が浮き彫りになっていると推測します。
バーバラ・ボニーからも、少し似た印象を受けます。
声が美しすぎると、地道に基本を学ぶ機会がなく、声を壊してしまう…。
ちょっと昔の歌手は自分に合ったレパートリーを、声に無理を掛けずに歌っていても良かったのに、現代の歌手はドラマチックな表現やモダンな演出に振り回されて、声を保つのが難しいようにと思います
こりーさん
ご意見頂きありがとうございます。
デセイは何度か手術をしていますから、そういう意味では年代によって微妙にフォームは変わっているのではないかと思いますが、
仰る通り、基本的には上半身だけで歌っている感じは確かにありますね。
特に1990年代は勢いだけで歌っている感じはありましたが、それでも憑依されたようなハムレットのオフィーリアは衝撃的でした。
声だけでなく身体的、声的な演技も素晴らしかった。
逆に、あのイメージが多くの人に焼き付いてしまったために、彼女は聴衆から超高音、ネジのぶっ飛んだ激しい演奏を期待されてしまう性を背負ったことで歌手の寿命を縮めてしまったのではないかと考えています。
イルムガルト・ぜーフリートはデセイとはレパートリーが違うので、もしかして意図されている歌手はリタ・シュトライヒではありませんか?
現代の歌手がドラマティックな表現に振り回されているのではなく、正確にはカラス、コレッリ、デル・モナコといったドラマティックな歌唱を理想化するオペラファンが多いために、そういった聴衆に歌手が振り回されているのです。
結局演出も演奏スタイルも、聴衆に支持されなければ生き残れませんから、知名度やデタラメな評論に騙されない本当に耳の肥えた聴衆が増えることが、良い歌手が活躍するために一番重要なことだと私は考えています。アルフレード クラウスも、レパートリーを決めるのは聴衆である。と語っていますからね。
どうもデセイ批判と受け取られたようで恐縮です。
彼女の美声と驚異の超高音は素晴らしく、魅力的な歌手です。
声質のみでしたら、私の好みにジャストミートしています♪
テクニックが不安定でしたが、それすらも魅力のひとつとなっていました。
私は声種やレパートリーにこだわらず、どれだけ体が”正しく”リラックスした状態で歌っているか、という点に着目しておりました。
yuyaさんの考察を否定する意図はなく、
私にとって目につく点は、デセイの下半身を使えていない点でした。
2005年以降では改善されていますが、その後は声自体が衰えてしまって…。
2015年のシューベルトに至っては、色んな意味で痛々しいとしか言えません。
不安定さの原因は1つだけではなく、様々な要因があるわけで。
そういう意味でグルベローヴァと並べてイルムガルト・ゼーフリートを例に出しました。
彼女も素敵な歌手でしたよね♪
リタ・シュトライヒでもエルナ・ベルガーでも構いません。
彼女たちは正しく全身を使えていて、声のポイントが前にあります。
こういった声は、たとえ声量がなくてもしっかり客席に飛んできます。
そして、声の衰えが少なく、長年良い状態で歌い続ける事が出来ます。
その反面、安定感が災いして退屈な印象も与えてしまいます。
どんな歌手でも生身の人間である限り、声は変化し続けます。
人によっては変化した声を引き立てる歌い方や新たなレパートリー選びが必要となります。
コロラトゥーラ・ソプラノは、そういう意味で維持するのが難しい。
50歳では20歳の頃のファッションやメイクが似合わないのと似ています。
その変化に対応して歌い続けるのは並大抵のことではないのでしょう。
良い聴衆が歌手を育てる、には全くもって同感です。
聴衆に支持されなければ舞台に立つ機会がなくなります。
私は新しい歌手を知らないので、yuyaさんのブログを楽しみにしています!
こりーさん
デセイの痛々しいシューベルトの歌唱が、まさに下半身が使えていない、上半身だけの響きを端的に表しているような気がします。
それにしても、正しく全身を使えていて、声のポイントが前にある歌手として、イタリア人ではなく、ドイツ系の歌手を挙げられるところを見ると、
イタリアオペラよりもドイツオペラやリートがお好きなのでしょうか?
発声が良い歌手としてゼーフリートを例に挙げらるなんて渋いです!
コロラトゥーラに関しては、やはりカラスが分岐点なんですよね。
彼女が良くも悪くもベルカント作品(ドニゼッティ・ベッリーニ作品)をヴェリズモのようにドラマティックな歌い方をするのが受けてしまった。
だから美しく伸びやかな声で歌うだけでは、中身のない演奏。物足りない演奏。と捉える人が多くなってしまった。
こうした要望に応えようとすれば、やっぱり声を酷使することになってしまって40代で声が無くなったり、ステロイドに頼らないと声が維持できなかったりする。こうして歌手が使い捨てで浪費されるような状況は本当に痛々しいですよね。
私もベルガー好きですね♪
イタリア人のコロラトゥーラでは、ルチアーナ セッラが個人的には一番好きです。
こちらこそ色々ご意見頂けて参考になります。
今後ともよろしくお願いいたします!