Anne Sofie von Otter(アンネ ゾフィー ヴォン オッター)は1955年スウェーデン生まれのメゾソプラノ歌手
バロック~近現代のオペラ、歌曲、宗教曲は勿論、クラシック以外のジャンルもジャズなんかも歌い、
ただ歌うだけでなく、あらゆるジャンルで高い水準の録音を残していることで知られている。
逆に、いろんなジャンルに手を出す歌手はクラシック畑の人間にはあまり好意的に見られないことがあり、
特に同じ演奏会でシューマンやコルンゴルトの歌曲と一緒にジャズを歌ったりするようになってからは、
その傾向が強くなったように思う。
これはオッターに限らず、日本でもミュージカルもクラシックもやる人はそういう見方をされる。
なぜかと言えば、
プロ野球の大谷が、最初に二刀流を公言した時、
野村克也のような人が「野球をなめてる」と言った。
これと全く同しで、一生掛けて研鑽を積むようなことを、あっちもこっちも手をだして上手くいく訳がないし。
専門に勉強してる人間に失礼だ!
と言いたい訳でしょう。
しかし皆様もご存じの通り、結果を出したらそんな発言はすっかり影を潜めてしまった。
では、オッターの場合はどうか?
それをこれから見ていこう。
1990年(35歳)
ブラームス Die Mainacht (五月の夜)
ソプラノのような高さの響きと透明感がありながら、しっかり中音域を鳴らせる。
表現という面ではまだまだ深堀すべき部分はあるとは言え、
実に優れた歌手であることがわかる。
1994年(39歳)
ワイル Surabaya-Johnny(スラバヤ ジョニー)
クルト ワイルの作品なので既に純粋なクラシックとは言えない部分、
ワイルやガーシュウィン、
後はバーンスタイン辺りはぎりぎりクラシック歌手が歌っても、外野は静か(笑)
ただ、こういう歌い方をすることで、
ブラームスで聴かせた端正な歌い方は容易く崩れてしまうリスクが付きまとうのは事実
1997年(42歳)
ビゼー カルメン Habanera
オペラでは、フィガロの結婚のケルビーノや、Rシュトラウスのオクタヴィアンといったズボン役が当たり役だったが、
徐々にカルメンを歌うようになる。
これは彼女流のカルメンなのかもしれないが、やたらポップスチックな歌い方をするので、
オッターは好きでもカルメンは好きにはなれない。という人が多かった。
2000年(45歳)
コルンゴルト 死の都 Marietta’s lied
ソプラノの曲をわざわざ3度下げて歌っていながら声自体が完全にソプラノになっている。
問題は中音域での密度の薄さ。
ピアニッシモでも、メゾであればもっと密度の濃い響きが欲しいところ。
これは故意に出しているのか、こういう声しか出ないのかがわからないので、
フォームが崩れているとかそういう指摘は安易にできないが、
少なくともこの曲をあえて調整を下げて歌うことには理解しかねる。
本来はこういう曲である
ソプラノ ベヴァリー シルズ
この人はかなり軽い声のソプラノだが、声の密度という意味では明らかにオッターより上
これは声の重さとか太さの問題ではなく、響きのピントがしっかり当たっているかということ。
よって、オッターの歌唱が故意であれ、
クラシックの作品を歌う上でやるべきことを怠ったというのは事実である。
2002年(47歳)
シューベルトのオーケストラ伴奏によるリーダーアーベント
響いてるポジションは概ね良いと思うのだが、時々低音でポジションが外れたり、
フォルテで喉に引っかかるような感じになる。
更に一番多きな問題は声が揺れていること。
ちょっと聴いただけではわからないと思うので、
分かり易い曲で例えば
20:05「Nacht und Träume(夜と夢)」
微妙に響きが低く揺れており、レガートも完璧ではないのが分かるだろうか?
因みに10年前、1992年(37歳)の時のメサイアのソロの声を改めて聴いて欲しい
無駄に声が揺れていないために言葉が10年後より明確に聴こえて、
軽く歌っているのに低音の声の密度も濃い。
メゾソプラノで47歳と言えば本来は最も脂の乗る年のはずが、これだけ変わってしまったのである。
これが様々なレパートリーに手をだすことの危険性だ。
2005年(50歳)
話題になったCD
ここで本格的にクラシック畑のファンは離れたイメージがある。
2011年(56歳)
ベルリオーズ 歌曲集 - Les nuits d’été (夏の夜)から
47歳のシューベルトを歌ってた時より持ち直した感がある。
そして表現という面では流石なのだが、どうも上半身だけが鳴っているように聴こえてしまう。
この声はホールの後ろまで届くのだろうか?
ただ、ドイツ語よりフランス語の方が良い部分が出ている気がする。
2117年(62歳)
モーツァルト フィガロの結婚 Abendempfindung(夕べの想い)
フィガロにドイツ語のアリアなんてあったか?と思った方へ
この曲は、マルチェリーナが3幕に歌う曲として存在はしていたものの、基本的にオペラで歌われることは滅多にない。
(私も演奏されたのを聴いたことがない)
声の衰えを一々指摘するつもりはないが、アリア(歌曲?)以上にレチタティーヴォが酷い。
もはや何を言っているか全くわからないレベルでイタリア語にも聴こえない。
これは喋ることの延長線上に歌うことを位置付けたクラシックの歌唱に対して、
オッターは色んな歌い方がハイブリッドされた歌唱法になってしまったがために、
レチタティーヴォセッコが全くできなくなってしまったと考えられる。
結論
オッターは優れた歌手であることに異論はないが、
レパートリーを広げ過ぎることのリスクは大きく、
オッターほどの歌手でも完全にクラシックとジャズやポップスを歌い分けるには至らなかったというのが私の見解だ。
よって、歌を勉強している人は彼女の発声をお手本にすることは避けた方が良い。
もし手本にするなら、1990年代前半までだ。
マイクに声を乗せる歌い方と、マイクを使わないで言葉を客席の最後尾まで届かせる歌い方は全く違う。
二兎を追う者は一兎をも得ず。
とまでは言わないまでも、
色々なジャンルを高いレベルで歌うことを目指すならば、それなりの代償を覚悟しなければならない。
CD
オッターの音源は大量にあるが、やはりクライバー指揮のバラの騎士の映像を挙げない訳にはいかない。
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