Angela Gheorghiu(アンジェラ ゲオルギュー)は1965年ルーマニア生まれのソプラノ
今年の3月に来日するということで、この機会に歌唱を分析してみようと思う。
個人的には、ロベルト アラーニャとのコンビで売れた印象が強く、
メディアによってつくられたスターというイメージが先行していたので、今までちゃんと聴こうとしなかったのと、
本来の声が軽いにも関わらず、売れ出すとトスカやら、更にはカルメンまで歌い出すという状況を冷ややかに見ていた。
そんな訳で、この場で、
容姿で売れた。
アラーニャを利用してのし上がった。
と言った外聞を全て締め出し、年代順に純粋な歌の実力を評価していこうと思う。
プッチーニ つばめ Chi il bel sogno di Doretta
特徴を列挙すれば
●子音の発音に癖がある。
●高音の抜けは良い
●中低音で響きが落ちる
●パッサージョ付近(Es~Fs辺り)の音が得に詰まった声になる
プッチーニ トゥーランドット Tu che di gel sei cinta
1994年が椿姫で大成功を収めた年で、彼女が世界的に有名になるきっかけとなった年でもあるようだが、
こういう曲を歌うと軽い高音のピアニッシモという最高の武器が生きず、
逆に全体的に奥まった発音、全てが”o”母音のポジションで発音されているような感じで、
不要な母音の暗さと重さがある。
同じような軽さのソプラノでも、真っすぐ歌えばこうなる
チェチーリア ガスディア
ガスディアと比べれば、ゲオルギューは全体的に奥で響きをつくっており、
特に低音で無理やり鳴らそうとしているのが分かる。
自分にとってはスカスカな位の声でも、実際はガスディアの歌唱を聴けばわかる通り、
不自然さがなく飛ぶのである。
日本人ソプラノの大半もそうだが、こういうアリアの低音の処理で失敗する歌手が多い。
こういう所で押してしまうと、最後の高音も力んで本来の声の美しさが損なわれてしまう。
ビゼー カルメン ミカエラとホセの二重唱
テノール ロベルト アラーニャ
アラーニャと結婚したのが1996年で、ここからやたらこのコンビでオペラに出てるイメージがある。
アラーニャは当時ポスト3大テノールの筆頭と目されていたので、
この当時は世界的にもトップクラスのテノールという位置づけにあった。
そういう状況も考えれば、やはりアラーニャの方が遥かに上手いのは仕方ないのかもしれない。
こういう部分で、一流のテノールの嫁として檜舞台に次々登場し、CDを出しまくる2流ソプラノ。
というイメージが一部に刷り込まれた感はあるだろう。
具体的には、アラーニャが全ての音や発音が同じポジションで響いているのに対して、
ゲオルギューは音程によって響きがバラバラで全くレガートで歌えない。
ここまで実力差があると、流石にゲオルギューの粗だけが目立って仕方がない。
マルティーニ Piacer d’amor
低音を押す癖はかなり取れてきて、イタリア語の発音も自然になってきてはいるが、
如何せん音程が壊滅的。
”o”母音なんてほとんど低いのではなかろうか?
なぜか所々”u”母音が日本語の”う”ですか?位浅くなるし。
音楽性という意味では90年代より格段によくなっているが、
こういうごまかしの効かない曲を歌うと、粗は隠し切れない。
プッチーニ 蝶々夫人 un bel di vedremo
この不自然に太くなった低音を聴くと、私はどうしてもステロイドやってるな。
というのを疑いたくなるのです。
2004年と2008年の低音の音質の違いはあまりにも極端過ぎる。
劇的に低音を歌っていても、2001年のヴェルディ レクイエムのソロなんかはまだ美しかった
健康な低音はこういう響き
ミリアム ガウチ
ガウチは過去の記事でも取り上げた通り、間違えなくフレーニより上手いソプラノである
極端なことを言えば、この演奏は本物である。
レガート、発音、ディナーミクどれを取っても一流。
それとゲオルギューを比較する訳ではないが、
上手い下手の問題ではなく、特に低音の声質の違いに注目して欲しい。
中でも(2:45辺り)の声はちょっとしたホラーである。
因みに同じ部分はガウチの演奏だと(2:30辺り)
プッチーニ ジャンニ・スキッキ O, mio babbino caro
2013年はアラーニャと離婚した年、
この人はずっと発音が奥まったままで、得に”i”母音は若い頃から全然良いポジションにはまらない。
「O Dio」という歌詞(1:25)を聴いただけでマトモに”i”母音が歌えないことがよくわかる。
常々、”i”母音の重要性については記事に書いてきたが、
本来一番前で明るく明確に響くべき母音が”i”だ。
この母音が崩れるということは、その地点で発音が不明確になり、声の明るさを失うことと同義なのである。
つまり、ゲオルギューの響きが常に奥まって発音のピントがボケて聴こえるのは、
”i”母音が正しく歌えていないから。
と言ってしまっても良いと思う。
プッチーニ トスカ Vissi d’Arte
もう最後のBすらまともに出なくなってしまっているのか?
「Vissi」が既にちゃんと発音できていないし、痛々しいことこの上ない。
レスピーギ https://www.youtube.com/watch?v=cRqlEGEk5yg
もう何を言っているのか全然わからない。
ディナーミクはあるはずなのに、結局言葉に色がないから変化が感じられない。
これもステロイドの影響があると思うが、最後の明らかに変な低音とかはどう聴いても自然な声じゃない。
アンジェラ ゲオルギューという歌手は一流歌手ではなかった。
その理由として、若い時の高音のポジション以外は正しいところにハマっていない。
特に”i”母音に関しては、音程にも多少左右されるが、
ほぼ常に飲み込んだような”i”と”e”の中間みたいな音色になってしまっている。
そのため、”i””e””a”という本来前で発音されるべき母音が全て奥で処理され、
発音が不明瞭になる。
低音で響きがとにかく落ちる
低音域はとにかく響きが落ちる。
更に低音で”o”母音がくると音程も完全に低くなることが散見される。
それもこんなことを若い内からやったことによる必然の結果でしょう
カルメン Hanabera(2003年)
確かに持っている声自体は、独特の高音の柔らかさがあったにもかかわらず、
自らそれを台無しにしてしまったようにしか見えない。
自分の声を理解できず、レパートリーを誤ればこうなってしまうというということを覚えておかねばならない。
そんな歌手を出さないためにも、聴衆が正しい耳を持つ必要性があると思うし、
歌手が道を誤れば舞台から弾き釣り下すのは聴衆として下品な行為ではない。
なぜなら、こういう歌手が表舞台に立ち続ける裏で、
実力がありながら舞台に恵まれない多くの歌手がいるからである。
まだ高音が済んでいた頃、アラーニャが良かった頃の演奏
声が合っているのはこういう役だったはずなのだが・・・。
[…] 昨日書いたゲオルギューの記事で、終始奥で発音することを問題視したが、 その意味がこのようなセリフ部分を聴けば、なんとなくでもおわかり頂けるのではなかろうか。 ペーは常に声で歌おうとしているので、微妙に音が上がる時にズリ上げたり、 同じ音で喋る時に音が切れたりするのに対して、シーは自然に言葉として歌っている。 声質の違いはあるにせよ、明るさや響きの高さもシーの方が上なので、 ピアニッシモにしてもシーは飛ぶが、ペーは飛ばない。 ただ、何度も繰り返すが、シーは”k”の発音が致命的に酷いので「Come」の発音が耳についてしょうがない。 そんな訳でイタリア語としての発音は比べるまでもなくペーの方が上。 […]