Anna Pirozziの歌唱で知るドラマティックソプラノの薄い響き

Anna Pirozzi(アンナ ピロッツィ)はイタリア、ナポリ生まれのソプラノ。
デビューからずっとヴェルディの仮面舞踏会(アメーリア)、トロヴァトーレ(レオノーラ)、ナブッコ(アピガイッレ)、マクベス(マクベス夫人)など
ヴェルディソプラノとして実績を積んでいる現在では珍しいタイプ。
若い頃は軽い役を歌って、ある程度年齢がいったら重い役を歌う人、
メゾソプラノからソプラノ役にレパートリーを広げる人
このようなタイプが今では主流で、デビューからヴェルディのドラマティックな役を歌っているような生粋のヴェルディソプラノはそういない。
そして注目したいのが、そんな歌手の声が決して重い声、太い声ではない。ということです。

 

 

 

 

 

カタラーニ ヴァリー Ebben? Ne andrò lontana

入りの「Ebben」
この部分をどう歌うかでアリアの出来が大体想像できてしまう。
例えば今売れっ子のドラマティックソプラノ、ホイとの比較

 

 

 

Hui He

ホイ ヘーはやや鼻声であることを差し引けば決して悪い歌手ではないのですが、ピロッツィと比較すると明らかに響きの質が違うのが分かると思います。
ピロッツィは出だしの”e”の母音を”i”に相当寄せて発音しているのですが、これは薄く響かせるための手段で、
”e”をそのまま発音してしまうとホイのように、響きが太くなって定まらず、入りの音程は完全に低い上に揺れ揺れの声になってしまいます。
よって、ドラマティックソプラノというのは鋼鉄の刃のごとく薄くて鋭い響きで、ドンキで殴りつけるような暴力的な声の真逆であるべきです。

この曲の出だしなんてヴァイオリンと同じ音で繊細に入るので、少しでもブレるとそれだけで汚く聴こえてしまう。
本当にこの曲の入りは歌手の技量が如実に現れるので、
演奏会なんかで聴くと、第一声聴いてダメだと後はもう聴く気になれません(笑)
それも仕方ないことで、プッチーニが嫌いだったトスカニーニ大先生が溺愛したのがこのカタラーニの旋律ですから、
それ位慎重に歌わないといけない。
それこそデカい声で圧倒しようなどと考えて歌う輩がいたら出直してこい!という話ですね。

 

 

 

 

 

ヴェルディ 椿姫 È strano … Sempre libera

ドラマティコダジリタと呼べる数少ない歌手であることがこの演奏で証明されています。
もう一々ダムラウと比較してヴィオレッタを歌うべき声について書くつもりはありませんが、
本来はこういう声の歌手が歌い、最後もハイEsなんて出さずにシンプルに終わる。
これがあるべき姿だと私は考えています。
そうしないと以後の音楽や性格と整合性が取れないですからね。
天下の高級娼婦ともあろうお方が、田舎者の青年一人にどんだけ動揺してんねん!とツッコミたくなります。
そもそも、高級娼婦とは高い教養を身に着けた人として描かれるべきなので、下品にわめき散らすのも変でしょ!とも思いますし・・・。
まぁ、そこは最終的に演出とも絡んだ解釈になるのですが、少なくともこのアリア以外の音楽との整合性は優先すべきというのが私の意見です。

 

 

 

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ヴェルディ 運命の力 Pace, Pace Mio Dio

常に上顎から響きが落ちず、低音で喋る声も本当に自然でレガートも申し分ない。
声で歌っているのではなく、響きの通ったポジションで喋れているからできることで、
太い声で歌っているような歌手ではまずこうはいきません。
こちらも現在を代表するドラマティコ、ハルテロスとの比較

 

 

 

Anja Harteros

高音の響きは美しいのですが、中低音の音色が奥まっていて、やや詰まった感じになってしまう癖があります。
これは結局響きが上がりきっていなくて、ピロッツィに比べて響きが太いためで、
もっと薄く高い響きが低音域で求められる。
それは「Dio」の”i”母音の発音が芯のない”デ”だか”ドゥ”だかよく分からない発音になっていることからもわかります。
意外かもしれませんが、高音はポジションさえハマればピアノで出すことはそんなに難しくありません。
重要なのは低音~高音までが同じ質の響きで出せるかどうかなのです。

 

 

 

 

ヴェルディ 仮面舞踏会 アメーリアとリッカルドの二重唱 Teco io sto
テノール Luciano Ganci

リッカルドを歌っているルチアーノ ガンチも黄金時代のイタリア人テノールを彷彿とさせる、
ファビオ アルミリアートから高音をズリ上げる癖を取ったような歌唱を聴かせています。
ピロッツィも終始奥行のある響きを失わず、最後の手前の高音は少々力んだ感はあるにしても、
流石にアメーリアを得意役としているだけのことはある堂々とした演奏です。
この大変難しい重唱を非常に高いレベルで演奏しているのが、有名歌劇場で歌いまくっている歌手ではない。
という事実はかなり衝撃的であるのと同時に、本来はそうであってはいけないのではないか?
つまり、こういう歌手こそもっと大舞台で注目されるのが健全なクラシック音楽業界の姿ではないかと思えてならないのです。
もう、最後の二人で出しているハイCなんて完璧に同調した響きです。
ここまでピッタリ響きが揃ったユニゾンになるということは、それだけ二人の響きが完全な倍音になっているということですから、
イコールで発声的に正しいということが言える訳です。
アルミリアートをご存じない方は参考までに、

 

 

 

ソプラノDaniela Dessì
テノール Fabio Armiliato

最後のハイCのユニゾンはあまり伸ばしていませんが、それでも声が分離しているのが分かると思います。
この二人が下手な訳でも、発声的に著しくどちらかがオカシイ訳でもなく、普通はこうなるものです。
それにしても、アルミリアートはこの高音のズリ上げさへなければもっと良い歌手になれたのに・・・。

 

イタリア人有名歌手の体たらく。と言ったら言い過ぎですが、
今ひとつぱっとしないイタリア人歌手が有名劇場で主役を歌っている今日、
その座は韓国人にまで相当脅かされるようになっているのが現状でしたが、
やはり歌の国の威信は消えた訳ではなかったようです。
こういう私達が本来イタリア人歌手に期待する歌唱をしてくれる歌手が健在であることはやっぱり嬉しいですし、
立派な声である前に、本質的に重要なのは豊な倍音を響かせる歌唱であることがよくわかります。
その豊富な倍音を含んだ響が、結果的に凄い声に聴こえている。というのが正しいのではないでしょうか。

 

 

 

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