Etienne Dupuisは大劇場で歌うのには早過ぎるのではないか?と思う理由

Etienne Dupuis(エティエンヌ デュピュイ)はカナダのバリトン歌手。

このところメトロポリタンをはじめロンドン、ベルリン、パリといった一流劇場にデビューし、ヴェルディのバリトン役を中心に、チャイコフスキーのエフゲニー・オネーギン(オネーギン)、プッチーニのラ・ボエーム(マルチェッロ)、ロッシーニのセビリャの理髪師(フィガロ)などを得意としています。

声の太さはそこまでありませんが高音に輝かしさがあり、上品な歌い回しは中々確かに素晴らしいのですが、声量があるタイプではなく、際立って個性的な役作りができるという訳でもないので、個人的には大劇場よりも少し小さい箱でこそ本当は良さが出る歌手なのではないかと思わなくもありません。
そこで、今回は、デュピュイがちょっと大劇場に進出するのが時期尚早なのではないか?
と考える根拠なども示しながら、彼の歌について分析していきたいと思います。

 

 

 

 

ロッシーニ セビリャの理髪師 dunque io son

やや硬さはありますが、ピントがしっかりあった響きで、特に高音は詰まることも、逆に喉が上がって薄っぺらくなることもなく、大変輝かしい芯のある声を聴かせています。
ただ、恐らく響きを前に無理に集めているいるような部分があるのでしょう。
アジリタはあまり上手くありません。
2:30~2:45辺りのヌッチは流石なのです。

 

 

Leo Nucci(3:47~)

ヌッチはズリ上げるような歌い方をするからダメ。という方が随分いるのは知っているのですが、
それはあくまで技術ではなく音楽性の問題。
近代を代表するヴェルディバリトンでも、アジリタをしっかり処理する技術は持っている。
と言うか、こういう技術がないと本当は重い役も歌ってはいけないはずなのです。

デュピュイとヌッチで何が違うかって、デュピュイは拍の頭の音をアタックして強くしてしまっているのですが、ヌッチは前に響きが集まっているのですが、決して拍の頭でアタックして押してはいないということ。
因みにこの演奏は2014年頃と思われますので、まだ大きな劇場に出演する前です。

 

 

 

 

ヴェルディ ドン・カルロ l’ho perduta…Dio, che nell’alma infondere amor
テノール Leonardo Caimi

音質が悪い録音ではありますが、声量の面でも声の深さの面でもロドリーゴを歌うには早すぎる気がします。
特に、カルロとロドリーゴの二重唱の(9:50~)のピアニッシモで歌う再現部。
声に全く芯がなくなっている。
フォルテでは強い表現ができますが、ピアノでも芯が失われてはいけません。
抜かないとできないのであれば、そもそもここまでピアノにしなくても、声楽的な声が維持できる範囲でピアノの表現をしないと、これじゃ歌ってるのかどうかすらわからない。

 

 

 

 

ヴェルディ 仮面舞踏会 Eri tu che macchiavi

ドラマを表現するのに声に頼り過ぎていて言葉が平坦に聴こえてしまいます。
特に”r”の処理。

一応巻き舌は出来るようですが、巻き舌をどんな時にするのかがよくわからない。
たまにはアリアでも対訳をつけてじっくり見ていくことにしましょう。

 

 

【歌詞】

Alzati! là tuo figlio
A te concedo riveder. Nell’ombra
E nel silenzio, là,
Il tuo rossore e l’onta mia nascondi
Non è su lei, nel suo
Fragile petto che colpir degg’io.
Altro, ben altro sangue a terger dessi l’offesa!
Il sangue tuo!
E lo trarrà il pugnale
Dallo sleal tuo core:
Delle lagrime mie vendicator!

Eri tu che macchiavi quell’anima,
La delizia dell’anima mia;
Che m’affidi e d’un tratto esecrabile
L’universo avveleni per me!
Traditor! che compensi in tal guisa
Dell’amico tuo primo la fé!
O dolcezze perdute! O memorie
D’un amplesso che l’essere india!
Quando Amelia sì bella, sì candida
Sul mio seno brillava d’amor!
È finita – non siede che l’odio
E la morte nel vedovo cor!
O dolcezze perdute, o speranze d’amor!

 

 

【日本語訳】

立て!お前の息子はあそこだ
会ってくるがいい。暗闇の中で
そして沈黙の中で
お前の恥辱と私の不名誉を隠してこい
いや彼女ではない、彼女の
かよわい胸が 私が滅ぼす対象ではない
もっと他に この罪を贖う血を流すべき者がいるではないか!
お前の血だ!
短剣は引き抜かれよう
お前の心のやましさに対して
わが復讐の涙が!

お前なのだ あの魂を汚したのは
わが魂の喜びを
私を信頼させておきながら 突然汚らわしくも
世界を毒にまみれさせたのは!
裏切り者よ!このような方法で報いるとは
お前に忠実な親友の信頼に!
おお失われた甘美さよ!おお思い出よ
天上にあるような抱擁の!
まだアメリアが美しく 清らかな時には
私の胸は愛で輝いていた!
終わりだ – 今や憎悪しか残ってはおらぬ
そして死しか この男やもめの心の中には!
おお失われた甘美さよ 愛の希望よ!

 

 

 

Javier Franco

発声的にはやや吠え気味で、響きも整ってはいませんが、
レチタティーヴォの表現では、明らかにデュピュイより言葉の意味が想像できる歌い回しをしていると思います。
デュピュイは丁寧に歌ってはいるのですが、丁寧に歌うことと表現が平坦になることは同義ではありません。

 

 

 

Sergio Bologna

個人的に現代最も過小評価されているヴェルディバリトンだと思っているボローニャ。
ボローニャは身長が低いので、演出家がキャスティングの力を持っているところでは使って貰えないのではないかと邪推したくなりますが、こんなに深い響きで朗々とヴェルディの求める音楽を表現できる歌手はそういないと思います。
このような響きであれば、表面的な怒りの表現だけではなく、もっと裏切りに対する哀しみの念の方が強く現れてくるので、歌い回しも全然違ってきます。
つまり、デュピュイの歌唱は、声は怒りに身を任せ、力任せな歌い方に近いのに、表現だけは大人ぶっている感じがある。

フランコの声でボローニャのような歌い回しをしたって絶対上手いとは思わないはずで、
デュピュイは自分の声が生かされるレパートリーや表現をもっと吟味しなければいけないように聴こえます。

 

 

 

 

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ Deh vieni alla finestra

 

時期尚早というのはこういう演奏のことを言うのだと思います。
ドン・ジョヴァンニのセレナータは猫なで声で歌えば良いというものではありません。

 

 

 

Peter Mattei

デュピュイの演奏のつまらないこと・・・。
ただでさへバスが歌うようなドン・ジョヴァンニ役を歌うには声が軽いのですから、
そんな彼が猫なで声で歌っても色気など出るはずもなく、ただただまだ歌うには若過ぎるな。
ということだけが目立ってしまいます。

その辺りマッテイもリリックバリトンで、決して太い声の持ち主ではありませんが、
変幻自在な節回しで、ただ楽譜に書いてある通り歌うのとは違う即興感を出して、この曲を自分のモノにしています。

夜這いするのにスーツにネクタイするバカがいるかという話で、
くそ真面目なセレナータなんて誰が聴きたいか?
と私なんかは思うのですが、いかがでしょうか。

 

この通り、
デュピュイは魅力的な声と素晴らしい高音を持ってはいますが、
レパートリーと表現がどうも噛み合っていない気がしてなりません。
そして、大劇場で歌うことで更に今もっている強い響きだけに頼った歌になっていかないか心配ですが、同時にこれからデュピュイは自分の歌唱スタイルをどのように確立していくのか注目していきたいと思います。

 

 

 

CD

 

 

 

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