Violeta Urmana(ヴィオレッタ ウルマーナ)は1961年リトアニア生まれのメゾソプラノ(ソプラノ)
キャリアの最初はメゾソプラノからスタートして、ドラマティックなサントゥッツァやエボリといった役柄を得意としたが、
後にソプラノに転向し、ドイツオペラ、イタリアオペラの双方で現代最高水準の演奏が出来てるドラマティックソプラノとなった。
メゾからスタートしてソプラノに転向したり、
あるいは、メゾでありながらソプラノの役も歌うことは古今問わず珍しいことではないが、
その殆どは、高音がメゾのそれであって、
ソプラノの響きで歌っている純粋なドラマティックソプラノとは言い難いことが多い。
一方ウルマーナはその逆で、メゾの時からソプラノの響きを持っていた。
今回はそんなウルマーナの歌唱を分析してみようと思う。
1997年(36歳)
今にしてみると、ウルマーナがロッシーニをペーザロで歌っていたということに驚くが、
強い声でありながら、重さや太さは皆無で非常に端正な歌唱を聴かせている。
一方、軽いロッシーニメゾの代表格と言えるベルガンサと比較してみればよくわかる
テレサ ベルガンサ
ベルガンサは軽い声ではあるが、完全に響きがメゾである。
それに比べてウルマーナはどうか?
高音の抜け方が全く違うし、そもそも声そのものが実に明確だ。
それでいて低音も声の焦点を失わない。
メゾと言うより、低音も鳴るソプラノが歌っていると言った方がしっくりくる。
2003年(42歳)
Wikiによれば2001年からソプラノの役を歌うようになったということだが、
このリサイタルではメゾソプラノということになっているが、どう聴いてもソプラノだ。
低音でも十分響きの高さはあるものの、それ以上に高音のポジションは完璧である。
例えばCäcilieの
「umhaucht von der Gottheit weltschaffendem Atem」(3:30~)
「世界を創造する神様の息吹」という歌詞の部分は、
パッサージョのFとG辺りで喋らないといけない。
悪い例として度々取り上げて申し訳ないが、ここでもシエッラに出て来てもらう
ナディーヌ シエッラ
(1:20~)
シエッラの演奏は言葉が全てぶつ切りになってしまって、
ハイソプラノであるはずのなのに、高々FやGでピアニッシモの表現にもなっていない。
「呼吸」とか「大気」とかいう歌詞とはおおよそ相いれない歌唱になっているのに対して、
ウルマーナは実に見事だ。
これがメゾソプラノの声、表現であるはずがない。
そもそも普通のメゾならもっと調性を下げて歌っている。
2007年(46歳)
相変わらずメゾの役をやってはいるが、誰がどう聴いてもソプラノである。
それでいながら中音域も声の強さを失わず、決して不必要に声が太くなることはない。
高音にしても低音にしても、普通に出してしまう。
一体どんな楽器をしてるんだか、常識では計れないとんでもない声を持っている歌手である。
2010年(49歳)
ソプラノの役をやっているが、2007年のサントゥッツァを歌っていた時より低音が太くなっているが、
決して不自然さはない。
高音の響きは健在で、ゆったりしたテンポの中でも余裕のブレスコントールを見せている。
2015年(54歳)
衰えが聞かれるようになってきた。
まず声が揺れ始めて高音で声が抜け切らなくなってきている。
歳を取ったら重くなる歌手が殆どだが、ウルマーナは鋭くなって喉が上がりだした。
喉が上がっているので、最後の「Lust」でピアニッシモにもっていけずに痛い失敗をしてしまっている。
2019年(57歳)
ここでもカヴァレリアのアリアを歌っているが、メゾの響きになっている。
決して深さがある声質という訳ではないが、ウルマーナは決して太く重く歌うことをしなくても、
十分にドラマティックソプラノ、ドラマティックメゾとして通用したという事実は意味がある。
こうしてウルマーナの声を聴いていると
10代の若者が音大受験の段階でアルトやソプラノを区別される、ということには疑問を持ちたくなる。
もっと曖昧なメゾともソプラノともつかない中間の声が存在している。
という事実を否定しているように見えてしまうからというのもあるが、
個々の学生の声と向き合うのではなく、多くの教師が声種でレパートリーや歌曲の調性を決めてしまうことにより
暗黙の内に本来克服すべき課題を声種に当てはめて考えるようにしてしまうということが何より恐ろしい。
例えば、
ソプラノならもっと高音が楽に出ないといけない。
アルトだったり低音がちゃんと響かないといけない。
バリトンだったらもっと太い響きがないといけない・・・など
こういう考え方が個々の声を共通化した声に代えてしまう。
ある先生の門下の発表会にいったら皆同じような声や表現で同じような曲を歌ってる。
なんてことがあるが、
それこそが大問題で、そんな教育の中でウルマーナのような楽器を持った生徒がいたとしたら、
一体どんな扱われ方をするのか想像するだけで寒気がする。
<歌詞>
Wie lieblich und fröhlich,
Zu schweben,zu singen,
Von glänzender Höhe
Zur Erde zu blicken!
Die Menschen sind töricht,
Sie können nicht fliegen.
Sie jammern in Nöten,
Wir flattern gen Himmel.
Der Jäger will töten,
Dem Früchte wir pickten;
Wir müssen ihn höhnen,
Und Beute gewinnen.
<日本語訳>
なんと愛らしく楽しいことか
飛び、歌い
輝く空から
地上を眺めることは!
人間達はくだらない
彼等は飛ぶことができず
哀しみに囚われている
僕たちは軽々と空を飛んでいくのに
狩人が仕留めるのは
僕たちがつりばんだ果物
僕たちは狩人を嘲笑って
ついでに戦利品も頂かなくちゃね
リート伴奏の大家ドイッチュが伴奏を務めたシューベルトの演奏。
オペラとリートは別物と考える風潮はまだ強いように思うが、
ドラマティックソプラノであろうとも、根っこにはシューベルトを端正に歌える繊細で細い息使いと、
明確でありながらレガートを伴った発音ができなければならない。
この演奏を聴けば、ドラマティックな役柄を歌っていようとも、如何にウルマーナが繊細な歌唱をしていたかが分かるだろう。
この1分ちょっとの歌曲の中に、
ウルマーナという歌手が世間一般に持たれているイメージを覆すだけの技術が凝縮されている。
何度も繰り返すが、ドラマティックな役柄を歌う歌手はデカイ声を出せれば良い訳ではない。
ということを改めてわかって頂けたらと思う。
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