ハイソプラノが目指すべき中低音の模範的響きはIrmgard Seefriedにあり

Irmgard Seefried(イルムガルド ゼーフリート)1919年~1988年はドイツの名ソプラノ歌手。
圧倒的な声や技術がある訳ではないのだが、そこにある音を無駄なことを何もせずにありのままに歌える歌手。
と表現すれば良いだろうか?

部分的に声を取り出せば、現代的な感覚だとやや浅い響きの声に聴こえたり、
発音が明瞭な訳でもなく、言葉に対する感覚がそこまで優れている訳でもなく、
名歌手のはずなのに、凄さを語ろうとすると飛び抜けて称賛すべき点を見つけるのが難しい歌手なのだが、
全く力むことなく、聴いていることに全く疲れや緊張を感じさせない声の歌手が他にどれだけいるだろうか?
と考えると中々いない。
ゼーフリートの偉大さは真っすぐで健康的な声と自然な響きにあるのだろう。

 

 

 

モーツァルト
羊飼いの王様 amerò, sarò costante
フィガロの結婚 Deh vieni, non tardar
コシ ファン トゥッテ Per pietà ben mio

100%の力を出して歌うことを決してせず、常に空気に解けるかの如く響かせる独特な歌唱でありながら、
五線より下のAの音すら高音と変わらない響きで楽に、美しく響く。
つまり、軽い声だから中低音が響かない。
という一般的な考え方を完全に否定する歌唱と言える。
声の「細い」、「太い」と、「高音が響く」、「低音が響く」というのが実は別問題であることがわかる。
若い時のデッシーとの比較

 

 

ダニエラ デッシー

近年を代表するドラマティックソプラノのデッシーだが、
アリアの始まり(1:45~)
ゼーフリートの演奏では(9:20~)
ゼーフリートはイタリア語の発音がそこまでよくないので、演奏として上手いのはデッシーという意見も当然あると思うが、
今回は上手い下手ではなく、中音域の響きがどちらの方が飛ぶのか?
ということに注目したい。
E dur(ホ長調)の曲で、出だしは五線の真ん中のHからオクターヴ下のHまで降りる。
その後も比較的低い音域を歌う曲なのだが、ゼーフリートは終始響きの質が変わらない。
一方デッシーは深い所で声を鳴らしている分低音はあまり前に出ず、
だからと言って胸に落として無理に響かせたり、喉を押して無理やり鳴らしたりもしない。
恐らく現代的な感覚ではデッシーの歌唱の方がスマートなのだと思うが、
楽器の小さいハイソプラノが低音域でしっかり響きのある声を出そうとした場合も同じことが言えるのか?
例えばグルベローヴァの演奏

 

 

エディタ グルベローヴァ

整っているように聴こえてレガートで歌えていない。
そしてゼーフリートに比べてどこか硬さがあり、中低音は声そのものも飛んでいない。
こういうところから見ても、
小さい楽器には小さい楽器なりの中低音の鳴らし方があるのではないかと私は考えている

というのも、コロラトゥーラを得意としながらも、中低音もしっかり鳴らせるハイソプラノというのは、
あまり奥で響きをコントロールせず、常に前に響きをもってきているからだ。

 

 

 

エカテリーナ・シウリーナ

ジルダのような役を得意としている人だが、細くてもしっかり響いている。
当然これは日本人にも当てはまる。

 

 

井優妃

前歯を見せて歌ったり、口のフォームの問題で高音は空間が狭くなってしまったり、
母音によって響きの統一感がなく”e”母音で特に音質が変わってしまうが、それでも中音域の響きはとても良い。
声が太くなくても、特別小さい楽器でない限りこれ位中音域は鳴るもの。
ここでわざわざ名前は挙げないが、玉井の声は名前の売れてる多くのソプラノよりよっぽど素直で健康的な声だ。

 

 

 

 

 

 

 

マーラー リュッケルトの詩による歌曲 ich bin der welt abhanden gekommen

ゼーフリートのから話がそれてしまったのだが、やはりこの人はイタリア語よりドイツ語を歌った方が良い。
ディナーミクや歌詞の出し方が素晴らしいとかではないのだが、兎に角響きの保ち方が絶妙。
特に”a”母音の処理が絶妙で、何種類も使い分けている。
高音は前に出過ぎないように、かなり”o”母音に寄せて、
逆に低い音域では響きが籠らないようかなり前にだしたり、
勿論他の母音も音域によって微妙に響きを調整しているが”a”母音は特に顕著。
高い音域の閉口母音は詰まり易いので、開口母音に寄せるよう指導する人がいるが、
実はその指導は真逆。
特にパッサージョは絶対暗めの母音に寄せていかないと、”a”、”e”母音で響きの質が変わってしまう。

 

 

 

 

Rシュトラウス Zueignung

上記で書いた母音の色について、この曲はとても分かり易く聴こえるはずだ。
中低音と高音域で母音の明るさが全く違う。
それでいて自然に聴こえる。
これを被せると表現する人もいるが、ただし響きそのものが落ちてはいけないし、
籠ったような響き、詰まった響きになっても勿論だめなので、
こういう複雑なことを簡単にやってのけるところにゼーフリートの素晴らしさがある。
真っすぐ歌っているように聴こえて、
そう聴こえさせるために母音の色を自在に変化使い分ける歌唱は、
大きな楽器を持たない大抵の日本人歌手にとっては良い参考になるはずだ。

 

 

CD

 

 

 

 

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