プーランクが惚れ込んだソプラノDenise Duval

 

Denise Duval(ドゥニーズ デュヴァル)1921年~2016年はフランスのソプラノ歌手。
プーランク自身の作品「ティレジアスの乳房」テレーズ役、「カルメル会修道女の対話」ブランシュ役で初演、
「人間の声」はデュヴァルのために書かれたと言われている。
正にプーランク自身から見染められたソプラノがこの人である。
詳細についてはコチラのブログが詳しく解説しているので参考にして頂ければと思う。

 

 

 

ティレジアスの乳房 Non, monsieur mon mari
ピアノ フランシス プーランク

プーランク自身のピアノと歌での演奏と映像としても大変貴重なものである。
デュヴァルの演奏は実に奔放で演劇的な要素が非常に強い。
声楽的な声だけではなくかなりデフォルメ声も駆使し、
発声的にも19世紀以前のクラシック作品を歌うためのものとは少し違う。
ミュージカルとかを歌う方向の歌い方に近いのかもしれないが、
重要なのはこの演奏をプーランク自身が高く評価したことだ。

 

 

釜洞祐子

この演奏は2000年ということで、釜洞が最も活躍していた頃で、
はっきり言って歌そのものはデュヴァルより上手いだろうが、
ティレジアスの演奏に関して言えば、教科書的な上手さで計ってはいけないということになる。
では、デュヴァルの演奏がどうクラシック的ではないのか?
この曲では発声的な部分がどう一般的なクラシック作品を歌うのとは違うのか分り難いので、
他の曲で比較してみよう。

 

 

 

 

 

 

グノー ’Viens, les gazons sont verts

前半がグノーのこの曲(おいで 芝生は緑)で、後半はプーランクの作品になっているが、
注目するのは前半のグノーの作品の歌唱。
このようにリズムやポルタメントなどを自由に駆使して演劇的に演奏しており、
一般的な歌曲演奏とは違って、デゥヴァルは、ほぼノンレガートで歌っている。
レガートで歌うことが西洋クラシックの根幹であることは疑いようがない事実で、
アーメリングと比較をしてみるとよくわかる。

 

 

エリー アーメリング

こういう速い曲では分り難いかもしれないが、
デゥヴァルは奥の空間をほとんど使わず、前の響きだけを使って言葉を飛ばしているのに対して、
アーメリングはもっと広く空間を使って息の流れで歌っている。
この違いが響きの深さやレガートに現れてくるのだが、プーランクは冒頭で書いたように、
デュヴァルが演奏することを念頭に置いて作曲した曲がいくつかある以上、
様式感という観点から見れば大事なのは発声的な部分の正否ではないということになる、

まぁ、それを言ったらブリテン演奏はピーター ピアーズの演奏が唯一無二の正解
ということになってしまうのだが、
プーランクとデュヴァルの関係は、夫婦関係、あるいは愛人関係とかそういう私情が絡んでいない(と思われる)
という部分で、より芸術的な面だけで心酔していたと考えることができるのではないだろうか?

 

 

 

1958年のリサイタル

こちらもプーランクが伴奏をしたリサイタルの音源。
レガートに注目して聴いてほしい。
デュヴァルの歌唱はシャンソン歌手のように聴こえないだろうか?
例えば一番最後に歌ったToreador(52:15~)

 

 

ミシェル セネシェル

セネシェルの忠実な演奏に比べて、やはりデュヴァル地涌奔放である。
音楽の捉え方、言葉の出し方には確かに大きな魅力があるのだが、ノンレガートで歌うというのは、
やはり喉に掛かる負担も大きい。
なぜならフレーズとしての流れで歌うのではなく、1音1音を歌うということを意味しているので、
声帯へ都度負荷が掛かってしまう。
イタリア語が発声に良いと言われるそもそもの理由が、子音の少なさ故に息の流れをせき止めることなく、
レガートで喋り易い言語だからである。ということを考えれば、
クラシックの声楽に於いて彼女のような歌唱は推奨されるべきではなく、
デュヴァルは1965年に喉を傷めたことで引退したということなので、
彼女の歌唱が如何に喉に負荷を掛けるものだったかは結果からも明らかなのである。

ただし、発声的な問題があっても、デュヴァルの歌唱に魅力があったのは確かで、
その歌唱をプーランク自身が気に入っていたのも事実。
声の真似ではなく、解釈という面から彼女の歌唱を研究することは、
プーランク作品を歌う上では間違えなく参考になるだろう。

 

 

 

CD

 

 

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