癖がなさそうな声のソプラノCamilla Tillingの癖について検証してみる

Camilla Tilling(カミラ ティリング)は1971年スウェーデン生まれのソプラノ歌手。
モーツァルトやRシュトラウスの比較的軽い声のレパートリーから、ドイツリートをはじめ、
コンサート歌手としてマーラーの交響曲や宗教曲のソロで活躍していおり、
日本にもオッターと一緒に来日してリサイタルを行っていたので聴いた方もいるかもしれない。

個人的なイメージでは、
スウェーデンのソプラノと言えば、ニルソン、リゲンツァ、テオリンといったドラマティックソプラノの系譜が即座に思い浮かぶのだが、
ティリングは強いながらも軽い声質で、著名なスウェーデン人ソプラノとはちょっと違った印象の歌手である。

 

 

 

Rシュトラウス Cäcilie

良くも悪くも北欧のソプラノ歌手といった声であるが、
簡潔にティリングの歌唱について長所と短所をまとめると

 

 

<長所>

・透明感のある声
・どの音域でも丁寧に歌える集中力
・あまり鳴らないながらも、しっかり響きを維持できる低音域
・劇的な表現も力まずに表現できる声のノビと理性

 

 

<短所>

・リートを歌う上では不要なヴィブラートやポルタメント
・ドイツ語の子音のスピード感(言葉の力感のなさ)
・母音により微妙に響きが変わってしまうところ
・響きに硬さがあり、まだまだ上がりきっていないところ。

 

このツェツィーリエという曲では、1:15~1:34の

「Was leben heißt,umhaucht von der Gottheit
Weltschaffendem Atem,」

という部分で発声や発音の技術がモロにわかってしまう。
例えばティリングの場合は
「Gottheit」の「Gott」がちゃんと言えてない。
「Weltschaffendem」でも二重子音「schaffen」が言えてない。
「schaffemdem」と「Atem」のa母音でズリ上げる。
「Atem」の”te”で押している。
子音は基本的にwやtが全く聴こえない。

音域的にはF~Gのちょうどパッサージョ付近で歌うため、
レガートで歌いつつちゃんと言葉も発音できる技術が求められる。
その辺りを考えると、なんだかんだ言ってテ カナワは上手い

 

 

Dame Kiri Te Kanawa

(1:02~1:14)言葉とレガートがしっかりできている。
ライヴ演奏ではないし、ピアノ伴奏なのでティリングとは全く条件が違うが、
方向性としてあるべき形がイメージして頂けるとは思う。

 

 

 

 

 

Rシュトラウス Leises Lied

あまり有名ではないリートだが、シュトラウスにしては簡素な伴奏で、
増4度音程(全音音階的な響き)が多く、やや印象派っぽさもある歌曲である。
「静かな歌」のタイトル通り、終始ピアノで繊細な表現が求められ、
比較的低い音程でもしっかり響きを維持できないと上手く聴かせることができない。
そこでティリングの演奏だが、
まず気になるのは「blühen」の”b”や「glänzt」の”g”といった、二重子音の頭の子音の音程を
後の母音と同じ音程で発音できていないこと。
これができてないとズリ上げたように聴こえてセンスが悪く聴こえてしまう。
後はツェツィーリエ同様無駄なポルタメントを掛けることや、子音の長さが基本的に足りないこと。
更に高音で母音の質が開き過ぎて変わってしまうこと。

例えば(2:31~)の「 jetzt 」という言葉の”je”でDes・F・Gと音程が上がるに連れて、
響きも「イェーアーオ~~」というように全く違う発音に変化しているのがわかるだろうか?
ティリングの声には癖がなさそうで、細かく聴いていくと実はかなり色々と癖があることがわかる。

 

 

 

グリーク ペールギュント Solveig’s Song

こういう曲になると、あまり悪い癖は目立たず、
持ち前の声の美しさや透明感が前面に出てくる。

 

こうやって聴いてみると、
リートでもそれなりに評価をされている歌手ではあるが、
実際は、声ではなく音楽性や表現、言葉の処理の面であまり向いていないのではないか?
と思ってしまう。
スウェーデンの歌手は言語能力に優れ、比較的何でも器用に歌ってしまう部分があるように見えるが、
それ故に、本来持っている声に合っているレパートリーが何かを見つけるのも難しそうだ。
ティリングを見ていると、そつなく歌えるということは必ずしも良いことばかりではないのだと考えさせられる。

 

 

 

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