Fiorenza Cossotto(フィオレンツァ コッソット)は1935年イタリア生まれのメゾソプラノ歌手。
歴代でも最高峰のヴェルディメゾとして一世を風靡したコッソットだが、
若い頃の歌唱を聴くと、ソプラノのような響きの高さと軽さに驚かされる。
私個人としては60歳を過ぎた声しか生では聴いたことがなかったので、
実はそこまで凄い歌手という認識はなかったのだが、若い頃の歌唱を知ると偉大さが理解できる。
1957年(22歳)
フンバーティング ヘンゼルとグレーテル(全曲 イタリア語歌唱)
他の歌手と明らかに違う歌唱を聴かせるコッソット
グレーテル役のJan Poleriは戦前のソプラノに多いタイプの発声で、
言葉<響き。で歌う歌手、ペーターとゲルトルートは奥まってやや詰まり気味の声、
魔女役のVittoria Palombiniは押した感じで響きがあがっていないメゾなので、
ヘンゼル役のコッソットと明らかに違う響きなのが分かる。とは言え、魔女なので幾分作っている声なのかもしれないが・・・。
それにしても、ヴェルディの諸役やカルメンを歌っているコッソットしか知らない方には、ヘンゼル役はかなり新鮮に映るに違いない。
全く重くも太くおなく、それでいて芯がしっかり通っていて、ソプラノのような高さの響きで広がりがある。
これが22歳の声とは恐れ入る。
1960年(25歳)
ロッシーニ 小ミサ Agnus dei
低音域の響きの密度と響きの高さ、明るさがそこらのメゾとはけた違いである。
常に響きのポジションが安定しており、見事なレガートとピアノの表現、
逆に、弱音に比べれば高音のフォルテでやや硬さがあるようにも聴こえるが、
それもあくまで解放されていながらもピンとが狂うことのない低音域の響きと比較しての話。
1964年(29歳)
ロッシーニ セビリャの理髪師 Una voce poco fa
少々低音の響きが太くなってきたが、この声でもロッシーニをしっかりロッシーニの様式感を保って歌える。
乱れないアジリタを聴くと、とても丁寧に歌っているのがよくわかる。
ただ、コッソットの良さでもあり、欠点でもあるのは響きが集まり過ぎて硬い響きに聴こえてしまう場合があることで、
特に”i”母音と”e”母音の響きのポイントはイタリア語の母音というより、ドイツ語を歌った方がむいてるのではないか?
とさえ思わせる。
1969年(34歳)
ヴェルディ ドン・カルロ O don fatale
高音の硬さがなくなり、
ソプラノ顔負けの高音と、ドラマティックメゾが持つ独特の低音を併せ持った声
そして、音質は低音と高音で全く違っているように聴こえるが、響きの高さは全く落ちていないので、
低音からいきなり高音を出しても全く響きがブレない。
同じくドラマティックメゾを代表する歌手であるザージックとの比較
Dolora Zajick
例えば
「Ah! Un di mi resta la speme m’arride,Sia benedetto il ciel, benedetto il ciel!」という歌詞の
「m’arride」から「Sia」を出すところ。
ザージック(4:17)
コッソット(3:43)
ザージックは音域によって響きの質が変わってしまって、”e”母音なんかはやや平べったくなっていたり、
低音は押している。
コッソットは高音の「sia」をちゃんと発音せずに「sa」になってしまっているとは言え、
どの音域、発音でも響きのポジションが同じであるために、これだけ跳躍が大きい部分もレガートで歌うことができる。
発声技術という面で見れば、実際にコッソットとザージックは別次元とさへ言える。
1976年(41歳)
チレーア アドリアーナ・ルクヴルール Acerba voluttà
この日本公演はあまり調子がよくなかったのかもしれない。
ちょっと時々鼻に入った響きになったり、高音でポジションが崩れたりと時々失敗がある。
それでも、低音は決して押して強く響かせるようなことはしない。
メゾの低音は鳴らすものではなく、自然に鳴る楽器を持っていればこそ本当の意味で歌として使うことができるもの。
現代の歌唱は例えば下記のような人が多すぎる
Aytaj Shikhalizada
大野和士が来シーズンの新国に呼べて喜んでた歌手の一人がこの人だが、
こういうのが勘違いのドラマティックメゾの典型。
コッソットの発声の違いは一聴瞭然だ!
だからこそこういうエセオペラ歌手に喝采を送るような聴衆にはなってはならない。
なぜならば、こういう歌手が檜舞台に立っている裏で、
多くの有望な歌手が日の目を見れずにいるからである。
1980年(45歳)
ヴェルディ アイーダ Ahimè, morir mi sento
上のアドリアーナと打って変わってこちらは絶好調。
高音は30代の時に比べれば抜けが悪く、音程もやや下がり気味になることがあるのだが、
表現の面では圧倒的で、中低音の言葉の力、音圧は他者の追随を許さない。
こういうのを聴けば、高音が大事なのではなく、中音域こそドラマを表現するのに最も重要であることがわかる。
1987年(52歳)
マスネ ウェルテル Werther… Werther !
フランス語になるとやや響きが落ち、響きが硬くなる。
コッソットの響きのポジションは独特で、鼻に入りそうで入らない本当にギリギリの部分、
硬口蓋が主に鳴っていると考えれるのだが、ちょっとした発音の違いなどで彼女にとって一番良いところからは外れてしまう。
ドラマティックな役を得意とする歌手はパワーとか勢いとかで歌ってるんじゃないか?などと思っている人がいたらとんでもない。
本当に一流のドラマティックは、無茶苦茶慎重に冷静に歌っているということだ。
1992年(57歳)
ヴェルディ Non t’accostare all’urna
60歳間近になっても声が揺れておらず、発音の明確さも変わっていない。
若い頃からここまで声の変化があまりない歌手お珍しい。
最近のスター歌手の多数を見ればよく分かるが、20代半ば~30代前半が全盛期で、
売れ出すと重い役を歌いだし、40代半ばには揺れ揺れの声になっている。
まるで消耗品のように、売れてる間に稼いで、若くなくなったら声も枯れる。
後は実績を引っ提げてネームバリューに騙され易い聴衆の多い土地で演奏会やって高価なチケットを売りつけたり、
マスタークラスを開いて1時間数万とか取る訳である。
1995年(60歳)
ケルビーニ メデア Solo un pianto
レガートが徐々にできなくなり、なんとか声で歌っているような感じになってしまっている。
流石に60歳になると声を出すことで精一杯なように聴こえなくもないが、
それでも常に丁寧な歌唱をしていることには非常に好感が持てる。
コッソットという歌手が、どれほどまでに作品に対して敬意を払って歌っているか容易に想像がつく。
2009年(74歳)
アイーダ Ahimè, morir mi sento
私が20代前半の時、コッソットの衰えた声を聴いて大した歌手じゃないな~!
と思ったことは間違っていた。
確かにこの演奏を聴いて素晴らしいと思う人はいないかもしれないが、
若い頃の声を失っても残った音楽はそれでもなお素晴らしい。
「ラダメ~~~ス」と伸ばす所以外何言ってるかわからない取り巻きに比べれば、
コッソットの言葉の方がよっぽど意味を持っているいるし飛んでいる。
表現するってこういうことだな。と、声だけ聴いていた若い頃には気づけなかったものに気付かされた。
改めてコッソットをじっくり聴いてみると、
もし言語の壁がなければ、この人は素晴らしいリート歌手にもなれたかもしれないと感じた。
その理由は、他のイタリア人歌手とは違った顔前面の共鳴の強さとドイツ語の響きの親和性、
そして丁寧な音楽を作りをするところで、何より若い頃のヘングレの演奏を聴いてそう思わずにはいられなかった。
そんな訳で、最後は若いころのモーツァルトの演奏で締めたいと思う。
この音楽性と声、絶対シューマンとか合うだろ!
て思いませんか?
息の流れだけで言葉を繋げる、実に見事な歌唱だ。
CD
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