東京春祭 歌曲シリーズ vol.25
ブリン・ターフェル バス・バリトン リサイタル(評論)
■日時・会場
2019/3/28 [木] 19:00開演(18:30 開場)
東京文化会館 小ホール
■出演
バス・バリトン:ブリン・ターフェル
ピアノ:ナターリア・カチュコヴァ
■曲目
アイアランド:
海ヘの情熱
放浪者
サン・マリーの鈴
クィルター:
今や深紅の花びらは眠る
もう泣かないで(《7つのエリザベス朝の詩》op.12より)
行け、愛らしいバラよ
喜びの麗しき家
イベール:
《4つのドン・キホーテの歌》
ドン・キホーテの出発の歌
ドゥルシネアへの歌
公爵の歌
ドン・キホーテの死の歌
シューベルト:
酒宴の歌 D888
セレナード D889
シルヴィアに D891
クィルター:
《3つのシェイクスピアの歌》op.6
来たれ、死よ
おお、わが愛しの人よ
吹けよ、吹け、冬の風よ
ブリテン:
霧めく、霧めく露(民謡編曲 第3集《イギリスの歌》より)
コープランド:
川のほとり
チンガ・リング・チョウ
◆全体を通した感想
このリサイタルは、一言で言うなら
酔っ払いバイキングの一人芝居だった。
今回のリサイタルは曲目を見ての通り、有名な曲はシューベルト位しかない。
というか、それなりにクラシック音楽に詳しい人でも、
ブリテンはともかくイベールやコープランドを知ってるかどうか、といった感じではないだろうか?
ここで作曲家について紹介しても、ただのコピペになるのでWikiのリンクだけ参考に貼っておく。
ジョン・ニコルソン・アイアランド(John Nicholson Ireland)
ロジャー・クィルター(Roger Quilter)
アーロン・コープランド(Aaron Copland)
ジャック・フランソワ・アントワーヌ・イベール(Jacques François Antoine Ibert)
ブリテンは同性愛者として有名だったが、クィルターもそうだったとは・・・
それはおいといて、いきなり全体の感想を書くのは、いきなり発声や発音についてあれこれ書いても、
あまりこのリサイタルに於いては意味をなさないと思ったからだ。
というのは、全体的に芸術歌曲というより、サロン音楽的なライトミュージックであり、
シューベルトの作品すらそっちの方向性にあえてそろえていたように聴こえた。
なので、楽譜に忠実に、フォルテ~ピアノまで神経の行き届いた緊張感、
詩を綿密に解釈して伴奏と歌は阿吽の呼吸で音楽を紡ぐ。
といった類のリーダーアーベントではなく。
軽妙なトークを織り交ぜながら、肩に力を入れることなく、
知らない曲でも親しみをもって聴ける演奏会に工夫されていた。
今回ターフェルが凄いと思ったのはリサイタルの構成力だ。
普通、トークを織り交ぜながら演奏すると。
曲を歌って、曲紹介をして、それにまつわるエピソードなんかを話ながら、
「それでは聴いてください」
みたいな流れを繰り返すのが一般的だが、
ターフェルはまずマイクを使わず、喋ってる声と歌ってる声はほぼ同質の響きで話はじめ、
まるで酔っ払って気分が良くなって、昔のことを語ってたら、自然にそれとなく伴奏が聴こえてきて、
気付けば歌い出している。という感じ。
トークをしているのか、テーマにそって演技をしているのか、
演奏とトークで生じるON OFFがなく、常にスイッチが入りっぱなしで、
聴衆の集中を切らすことなく、会場の殆どの人が知らないであろう曲ばかりの演奏会にも関わらず、
全く会場の熱が冷めることがなかったのは見事としか言いようがない。
これは歌が上手いとか、声が良いとかそれだけでできることではなく、
ピアノのカチュコヴァは技巧はしっかりしていながら決して出過ぎることがなくて見事に雰囲気を作り出し、
ターフェルの自由奔放な歌唱をサポートしたことも含め、抜群の構成力を持った演奏会になっていた思う。
本来、演奏前後の静寂はクラシックの演奏会では必須の要素である。
と言うのは、演奏は絵画、静寂は額縁にあたり、この静寂が現実の世界と音楽の世界の境界線になっているからだ。
今回、ターフェルはこの静寂という境界線を取り払って、現実世界へ戻る間を与えないことで、
聴衆を音楽の世界に引き留め続けることに成功した。と言える。
しかも、こういうことは器楽ではできないことで、声楽だからこそできるやり方だ。
そんな訳で、マニアックな曲目を演奏しても聴衆を飽きさせない演出について一つ勉強になった。
◆ターフェルの演奏について
ここからは、毎度の歌唱評論に入るのだが、
何分、私も知らない曲が山盛りだったので、シューベルトの作品くらいしか綿密な批評はできないのだが、
詳しい人によれば、ターフェルの英語は、正統的なブリティッシュイングリッシュではなく、
ウェールズ訛りがあるとのこと。
英語歌唱に関しては全くと言って良いほど勉強してないので、発音がどうだったかを解説することはできないが、
少なくとも、米国作曲家のコープランドと他の英国作曲家との発音の違いはなかったように思う。
その辺に詳しい人は、
パーセルとブリテンは同じ発音で良いが、バーンスタインやバーバーは違う。
と言う英語と米語は歌い分けが必要。との見解だったので、
ターフェルはそこについて意識して歌っているようには聴こえなかった
声につては、
上記の録音が1995年のようなので、30歳くらい、
現在が2019年だから、この録音から24年位経過してるので当然声は違う。
この録音では持ち声の良さだけで歌っている感じが強いのだが、
本日の演奏では、声を全開にして歌う場面は全体を通しても数える程だったかもしれない。
だが、声はどの母音でも常に開いているのは流石。
冒頭で「酔っ払い」と書いたが、
酔っ払って呂律が回らなくなってくると声が普段より大きくなる。という経験のある人はいると思う。
あれは、余計な喉(舌)の力が抜けている状態になって、普段より声が響いているからなのだが。
歌ってる時に、あの口内の状態で発音だけちゃんとできれば無駄な力が入ってない理想に近い状態が作れる、
そんな訳で、ターフェルの声は素面な酔っ払い声とでも言えば良いのだろうか。
ただ、プログラムの最初のうちは響きがあがらず、低音や歌い出しで引っかかる部分があったのだが、
意外に高音が綺麗に抜けて細いポイントにしっかり響きが集まっていたのは驚いた。
五線の上の方はこんな声を出してるイメージだった
太い声のまま上も出していると思ったのだが、
実際に聴いてみると低音より高音の方が響きが乗った良い声だった。
逆に、低音は持ってる楽器が良すぎて鳴り過ぎてしまうのか、
どうしても喉声っぽく聴こえることがある。
ただ、今回は前述の通り、芸術歌曲やヴェルディ、ワーグナーの作品でもないため、
わざと表現のためデフォルメ歌唱をしていた可能性もあるので、発声についての良し悪しを判断するには難しいところ。
それはピアノの表現にも言えることで、
高音ではファルセットを多用したり、シャンソン歌手のような抜き方をしたりと、
本来の芸術歌曲に於いて用いられる、緊張感の凝縮されたピアノの表現とは別物になっていた。
本日のアンコール曲
はっきり言ってこの録音の演奏は酷いが、今日の演奏はまだ良かった。
とは言っても、どうしてもドイツ語に聴こえない演奏なので、思い当たる原因を書くと
❶語頭の子音が全く聴こえない。
この録音でもそうだが、どの言葉でも頭の子音が全く聴こえない
❷摩擦音が全くない
”z”や”v”がターフェルの演奏から全く聴こえてこないので、
「alle Seelen(全ての魂)」のような言葉に全く重さが出ない。
➌語尾の子音が無駄に長いことがある
特に”n”、イタリア人がドイツ語を歌うと、語尾の”n”を「nu」とはっきり聴こえることがあるが、
ターフェルも結構それに近い
❹母音が広過ぎる
この録音では分り難いのだが、
今回の演奏会は酔っ払いのテンションだったせいか、全てアペルト気味の歌い方で、
全体的に母音が明る過ぎる印象だった
❺二重子音のリズム感がない
促音が聴こえかったり、語頭の食いつきが悪いので
詩のリズム感が全然出ない。
上記の欠点が分かり易い映像
特に母音が広すぎることについては以下を見るとよく分かる
全部の言葉を強く喋り過ぎ。
こういう曲はどこに向かって流れるべきかを綿密に計算して音楽を構築しないと
ひたすら同じことを繰り返す退屈な演奏になってしまう。
この曲は本当に難しくて、ゲルネの演奏も一長一短。
個人的にはプライスの表現が目から鱗だった
マーガレット プライス
ターフェルトとの言葉に対する感覚の明らかな違いがわかるだろうか?
そんな訳で、ターフェルのドイツ物は個人的には全然良いと思えないので、
オランダ人は行かないことにしたのであった・・・。
エリックがザイフェルトなだけに、余計ターフェルの発音に関しては気になることが確実。
とは言え、ウェールズ生まれのバイキング男のオランダ人は見た目と声はピッタリはまるだろうが、
残念ながら演奏会形式ではその部分の魅力も半減するというもの。
本日の演奏会、アンコール最後に歌った曲がこれ
イタリア語の発音にも違和感を感じるし、低音はやっぱり喉声っぽいのだが、
それにも増して指笛と持ち声の良さが存分にハマって会場は大いに盛り上がった。
全くアリアを歌っていなかったのに、最後の最後に持ってきたのがメフィストーフェレとは、
酔っ払いの一人芸大会の締めくくりに歌うには絶好の選曲だった。
ファウストじゃなくて、メフィストーフェレってのが心憎いっす。
◆総括
演奏会を総括すれば、
マイナーな自国の作品を紹介しながら、
英語が公用語ではない日本で聴衆を飽きさせなかった手腕には感服した。
シューベルトの演奏に関しても、ドイツ語の発音には色々クレームをつけたが、
いかにも高尚な芸術作品である。という側面だけでなく
もっとくだけた、本来持っている仲間内で楽しく詩の朗読会をやってる感じの延長線上に置いた
自由奔放なテンポの揺らしや、時には楽譜を無視したディナーミク、そしてデフォルメ声を使った表現も、
しっかりコンセプトがあった中で行われていれば一つの解釈としては面白いものだと思った。
ただ、クラシックの声楽に於いて悪い癖はあっという間について、治すのには膨大な時間が掛かるもの。
どんな偉大な歌手でも、フォームを崩せば真っ逆さまに転がり落ちていく。
ターフェル程のキャリアを積めばこそ許される演奏会であったとも言えるだろうか。
何にしても、喋っている声と歌声が全く同じように響くことの大切さを改めて実感させて貰ったし、
その他にも新しい発見があったので、本日の演奏会には大変満足している。
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