驚くべき技術を持ったリリックテノールJosef Traxel

Josef Friedrich Traxel(あヨーゼフ フリードリヒ トラクセル)1916年~1975年はドイツのテノール歌手。
シュトゥッツガルトを中心にモーツァルト~ワーグナーまで幅広いレパートリーで活躍し、
イタリアオペラの作品もリリックな役から、かなりドラマティックな役まで歌っていたという。
その声は、軽いながらも芯の強さと柔軟さを兼ね備えた理想的なリリックテノールの声質であったが、
残念ながら映像は残されていないようだ。

 

 

 

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ
Dalla sua pace(ドイツ語歌唱)
Il mio tesoro(ドイツ語歌唱)

ドイツ語歌唱ではあるが、逆にDalla sua paceは特にイタリア語より自然に音楽と調和する感すらある。
それにしても見事な歌唱である。
アジリタの技術、ブレスの長さ、響きの柔らかさと声の明るさ。
どこを取ってもモーツァルトを歌うのに理想的である。
声や技術だけでなく、何と言っても素晴らしいのは様式感。
現代から考えれば遅めのテンポではあるが決して間延びすることなく、
リズム感や細かい音の処理の仕方、ディナーミク、広い跳躍の歌い方など、
無駄に劇的な表現をすることがなく、モーツァルトの音楽と見事に調和した演奏である。

 

 

 

ベートーヴェン Abendlied unterm gestirnten Himmel

星空の下の夕べの歌。
とても美しい曲で、トラクセルの高音がビュルリンクを思わせる輝きがあるために、
尚更この gestirnten Himmel(星空)にぴったりで聞き入ってしまう。
それでいて中低音もしっかりした厚みがあるので、
確かにこういう演奏を聴くとワーグナーを始めとしたドラマティックな作品を歌っても違和感がなさそうだ。

トラクセルは他にも沢山リートの録音を同じ伴走者のギーゼンと残していおり、
YOUTUBEでも聴くことが出来るのだが、
どうもヴンダーリヒ同様ギーゼンの伴奏が今ひとつだったり、録音状況が悪かったり、
表現が好きになれないものがあったり
ドイツ語の発音にシュトゥッツガルト訛りが入っているのか。曲によってかなり違和感がある時もあるし、
美しき水車小屋の娘に至っては、歌詞も音程もかなり適当だったりした。
そん中でこのベートヴェンの演奏は大変素晴らしいものになっている。

 

 

 

マーラー 大地の歌
Das Trinklied vom Jammer der Erde
Von der Jugend
Der Trunkene im Frühling

一般的なヘルデンテノールが歌う演奏よりはやはり軽いが、
若さについて(11:33~)、なんかは逆に自在に声を操り高音を苦にしない演奏は
音果の最後まで神経の行き届いた声で、音の出だしも勢いで出す音が全くない。
強い声のヘルデンテノールにはない味わいがある。
同様に、春に酔える者(14:59~)も軽く明い声ながら、響きは芯があり、
オケに負けない強さが備わっている。
では、現在売れっ子のフォークトはどうか?

 

 

 

 

 

 

クラウス フローリアン フォークト

Von der Jugend(18:08~)
Der Trunkene im Frühling(28:09~)

声に芯のないフォークトと、しっか一本筋の通った響きのトラクセル
同じ軽い声でも強さは全く違う。
そして音果の緊張感にも注目して欲しいのだが、
スタジオ録音にも関わらず伸ばした音の歌い終わりを抜くフォークトと、
ライブ音源でも音の長さ一杯まで緊張感を維持するトラクセル。
しかし、こんなフォークトが最高のローエングリンだと多くの人々にもてはやされる時代なのだから唖然とする。

 

 

 

ドニゼッティ 愛の妙薬 Una furtiva lagrima

ドイツ語歌唱に比べれば、イタリア語での歌唱は発音に癖があり、
声も多少鼻に入ったような感じになってしまっているが、
それでもブレスコントロールや最後のカデンツァのアジリタは見事としか言いようがない。
ここまで美しいレガートで転がれるテノールはそういない。
こういうドイツ人歌手がいたにも関わらず、
ドイツ唱法だ、イタリアの正当なベルカント唱法だなどと、
国で発声を分断することは愚かしい行為以外何物でもないだろう。

 

 

 

ヘンデル メサイア(テノールソロ部分のみ ドイツ語歌唱)

英語ではなくドイツ語歌唱ではあるが、とても見事な演奏である。
昔よくいた古楽歌手のように、一々音を切ってノンレガートで演奏したり、
古楽を歌うテノールに有り勝ちな、高音はほぼファルセットに近い声で出すようなことも勿論していない。
そして、ここでもメリスマのキレ味が抜群で、発声技術の高さを示している。
ただ、現代的な感覚の古楽演奏とは違うので、装飾音の付け方やテンポには多少違和感があるのは仕方ない。

それにしても、こんな素晴らしい歌手の映像が全くないなんてもったいない。
1950年代~60年代にはバイロイトにも出ていたようだが、
トリスタンの船乗りや、タンホイザーのヴァルターといった脇役だったようだ。
こういう歌手が少しでも評価されて音源や映像が復刻されることを望まずにはいられない。

 

 

CD

 

 

 

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