2019年一発目の記事として、
理想的な発声とは何か?
ということについて書いてみようと思う。
声楽に於いて<発声>について考えることは必須である。
それ故に、時には<発声>という運動行為が一つの芸術であるかのように語られ
ベルカントだドイツ式だと名前を付けて区別される。
更には永田発声研究所のようなものまで現れ、
声を出すことが芸術であるかのような錯覚を与えるものも少なくない。
一方、発声について書かれた著書は数多とあり、
とりわけ声楽を勉強する人、あるいは教える人に愛読されているものの一部を紹介すると
こんな感じか。
上記はひと昔前の著書なので、最近はもっと増えているだろう。
当然声楽を学ぶ者であれば、合唱部の学生、アマチュア合唱団員であっても、
身体の動きを理解することは大事なので、これらの著書は何らかの役に立つだろうが、
では、理論を理解したからと言って実際に声楽的な声が出るかどうかは別問題だ。
もし理屈を理解して良い声が出るのであれば、耳鼻咽喉科医は皆プロの声楽家のような声が出せることになる。
今回、この記事で『理想的な発声』が何を指すのかを先に書いておくと
声そのものの良し悪しと言うより、特定の言語を歌うための理想的な発声についてである。
元も子もない話をすれば、
イタリアだろうとドイツだろうと基本的な発声については変わらない。
これはブリギッテ ファスベンダー等に習った友人から聞いた話と
ニコラ マルティヌッチに習った私の師匠が言っている身体の使い方が全く同じだからこそ確信していることである。
この辺りを勘違いすると、下記の動画のようなことになる
私には、彼の言うドイツ唱法で歌った時と、ベルカントで歌った時の声の違いは全然わからない。
では何が違うのか?
と言われれば、言語的な特徴である。
分かり易い例として、まずこの二つの演奏を聴いて頂きたい
ワーグナー ローエングリン 遥かな国に
ヴェルディ 椿姫 プロヴァンスの海と陸
上手いけど何か違う。
と感じる人が多いのではないだろうか?
勿論、デル モナコのドイツ語発音が気になるというのはあるにせよ、
なぜ気になるかと言えば、子音の処理であり、子音の処理を犠牲にすることで、彼の声は維持できている。
要するに、理想的な発声で歌うために言葉を犠牲にしている。
と言える訳だが、ではそれがドイツ語の作品を歌う上で本当に理想的な発声なのか?
という疑問も同時に生まれる。
一方ディースカウは、上手いがどこかヴェルディのオペラアリアと言うよりはリートのようだ。
どこか声が薄いと感じるのは、子音の多いドイツ語はイタリア語より言葉の処理が前になる。
前で発音する分、シャープだが薄い響きになる。
では英語を常用している米国人歌手はどうか?
ヴェルディ 仮面舞踏会 お前こそ心を汚す者
声の太さは十分にあるのだが、どこかくぐもったような、ちょっと鼻声のような
ヴェルディを歌うにはうってつけの声だが、理想的な発声とは言い難い
今は絶版になっているようだが、上紹介している著書にも英語を公用語とすることの弊害が書かれているのだが、
舌根を固めて発音する音、
- walk
- water
などの「wɔ」が特に発声的によくない発音であることが説明されている。
では、母国語以外を理想的な発声で歌うことは不可能なのか?
と言えば全くそうではない。
メキシコ人テノール フランシスコ アライサ
彼が歌うドイツ語は非常に理想的な発声で歌われている
Rシュトラウス 冬の愛
メキシコの公用語はスペイン語であるから、ドイツ語とは発音的には遠い言語であるが、
アライサは聴いての通り、劇的な音楽にも言葉を犠牲することなく、
それでいて声自体も伸びやかで見事に歌っている。
ここまで男声歌手ばかりを取り上げてきたので、女声にも目を向けてみよう。
あまり超絶技巧を聴かせるような曲は、言語より音楽に主導権があるため、
今回はそのような作品はとりあげない。
ビゼー カルメン Hananera(ハバネラ)
一般的なカルメンの声としては、もう少し発音が奥めに欲しいところで、
上手いけど何か違う。という感は否めない。
ワーグナー ローエングリン エルザの夢
声はエルザを歌うのに相応しいのだが、言葉を発音するポジションがもう一歩前、
クレスパンは鼻の裏から硬口蓋に響きがあるイメージだが、
上唇の裏、上の前歯と鼻の下あたりに響きがくるとドイツ語を歌うのに適した響きになると思われる。
では、この2人の歌手を違う曲で改めて聴いてみよう
シューベルト 君は憩い
マイヤー
フォーレ 夢の後に
クレスパン
いかがだろうか?
発声が良い悪い。というのは
声を出す。という単純な運動としての要素だけを言うのではなく、
その言語や様式感にあった響きを獲得できるかどうかが重要だということが、
この二人の演奏を聴くだけでもわかると思う。
ヴェルディ自身が気に入っていたバリトンにヴィクトル モレルという人がいた。
モレルはオテッロの初演時にヤーゴ役に抜擢された人だが、
この人の演奏を聴いて、これがヴェルディを歌うバリトンの理想だ!
と思う人はいないだろう
近代を代表するヴェルディバリトンのレナート ブルゾーンも、
「我々がヴェルディのスタイルだと思っているものは、これまでの年月で積み重ねられた慣習でしかないんだよ。ヴェルディが生きていた時に生きていた人間は現存しないのだし、ヴェルディが自分のオペラを指揮した時の録音もない。ヴェルディらしさ、とは我々の想像でしかないのだよ。本当の正解は、誰にも知りようがないんだ」。
と言っています。ソースはコチラ
それと同じように、バロック音楽全盛期にカストラートがオペラ界を席巻していたと言われても、
最後のカストラートと言われるモレスキを聴いて感動する人はあまりいないのではないだろうか?
何が言いたいかと言えば、
ベッリーニやドニゼッティがいた時代に活躍したテノールが、
現在のように高音を胸声で出していなかったことは有名な話。
参考までに以下コチラの記事より引用。
この時代までのテノールは、パッサッジョより高い音域(アクート)はファルセットにして出していました。
ロッシーニと重なって、ベッリーニ〔Vincenzo Bellini 1801〜1835〕やドニゼッティ〔Gaetano Donizetti 1797〜1848〕が活躍していた頃、テノールの声に新しい流れが生まれました。
ベッリーニやドニゼッティのオペラにおいては、テノールの装飾的なパッセージは徐々に少なくなりつつありました。そのような中、まず、ジョバンニ・バティスタ・ルビー二〔Giovanni Battista Rubini 1794〜1854〕が登場します。ルビーニは、ファルセットではない胸声で2点シまで出す事ができ、フルボイスでのトリルが可能でした。(ルビーニは、胸声での2点シを持っていましたが、それ以外はこれまでのアジリタの歌手と同じでした。)また、「声の涙」と言われるテクニックも持っていました。この歌声を聴いた、ベッリーニは、「私の音楽に天使の響きを与えた」と言っています。
ジルベール・ルイ・デュプレ〔Gilbert Louis Duprez 1806〜1896〕は堂々と響く胸声による3点ドを出しました。この声を聴いたロッシーニは「喉をかき切られた雄鶏の金切り声」と不快感を示しましたが、当時の聴衆から人気を得ました。
このような観点から、最も近現代でベルカントを継承している歌手として
前出の著書『テノールの声』で絶賛されているのがマッテウッツィだった。
そして、逆に
ジュゼッペ ディ ステファノやマリオ デル モナコといった、
現在のオペラファンや声楽教師の大半がベルカントと疑わない歌唱は
きっぱり否定されている。
特に60年以降のステファノに関しては
「A以上上の音は叫び声で、愛の妙薬を道化師のように歌うことしかできなかった」
とまで書かれているのだ。
デル モナコについても
「中音域を不自然に増幅させる発声により、高音は常に一本調子で、彼だからこそ持ちこたえることができたが、
彼の弟子や、彼を真似た歌手がどうなったかを見れば結果は明らかだ」と書かれている。
この事実から見ても、
今の私達にとってベルカントという言葉にどれほど意味があるのかしっかり考えなければならない。
上記ではテノールを例に挙げたがソプラノでは、
ベルカントの継承者として名前が挙がるのは
それ以後のイタリア人ソプラノだと、辛うじて若い頃のRenata Scotto(レナータ スコット)や
Luciana Serra(ルチアーナ セッラ)が近いかな。という感じだが、
フレーニは本来のベルカントとは完全に違う。
フレーニよりは確実にMiriam Gauci (ミリアム ガウチ)の方がベルカントと呼ぶにふさわしい。
逆に、ドイツ物もイタリア物と同じようにこなす
Edita Gruberová(エディタ グルベローヴァ)は、ベルカントなのかドイツ式発声なのかどっちだ?
という疑問も湧いてくる。
このように、現在に於いてベルカントという言葉は美しい声の概念であって、
正しい発声を意味した言葉ではないことを理解しなければならない。
以上で見てきた通り、
理想的な発声は言語によって異なり、
ましてやベルカントというモノ。
特にオペラを歌う上で崇められている歌唱法は、
蜃気楼のごとく曖昧な概念であることを説明してきた。
このことから、まず理想的な発声を身に着けようと思ったら避けて通れないことは、
①発声メカニズムを理解すること
良い発声教本はこの部分に焦点を当てて書いているので読むことは絶対プラスになる。
勿論、ドイツ人だから、イタリア人だから、日本人だから、と人種によって身体の動きが違う訳ではないので、
この発声の根幹部分で、歌う言語によって異なるメカニズムで発声をするなんてことはあり得ない。
問題は、自分の身体が正しく動いているかどおかを自分自身で把握することがとても難しいため、
良いボイストレーナーが必要になってくる。
②自分が常用している言語の特徴を理解すること
※日本語であれば、特に注意すべきは「ん」である。
一般的には「u」が日本語は浅いから注意して。
と言われるのだが、一番の問題は「ん」なのである。
ここでは詳しく書かないが、本来子音で表した場合「n」「m」「ng」「gn」が
日本語では、母音のように一音節として、「ん」で表される。
③歌う言語の特徴を理解する。
喋れるからと言って上手く歌える訳ではないのは、
日本人だから私達全員が日本歌曲を上手く歌えるわけではないことからも明らかだ。
公用語として頭で考えなくてもできる言語は、逆に感覚的にしか言語の特徴を理解していないことが多い
よって、例え日本歌曲であっても、
否、日本歌曲では一層言葉の特徴や感覚を研ぎ澄ませなければならない。
④自分の声を正しく理解すること
恐らくこれが一番難しい。
カルーソーが、「正しい発声は人の数だけある。」と言った通り、
自分の声を正しく理解して、適格なレパートリーを選ぶことがとても大事である。
故に声楽教師は、生徒に対して与えた曲について、なぜその曲を、そのタイミングで勉強させるのか
明確に意図を説明できなければならない。
逆に、自分のレパートリーを押し付けるような教師には絶対師事すべきではない。
年齢と共に身体は変化する。
その変化に常に耳を傾けていなければ直ぐに道を踏み外してしまう。
この作業は学生であろうと、一流歌手であろうと、絶対怠ってはならないことであり、
長年声を保ち続けている歌手はこの部分が徹底している。
『理想的な発声とは何か?』を簡潔に書いてみたがいかがだっただろうか?
一般的に発声と言えば、身体の使い方や、口の開け方、姿勢といった部分については、
冒頭で紹介したように専門書が数多と出ているので、
運動としての声をただ出すという意味ではなく、
声楽的に、理想的な発声がどうあるべきかを書いた。
どんな著名な教師でも、他人の声には責任を取れません。
アマチュアであっても、プロであっても、
歌をやっている方は常に自分の声と真摯に向き合って頂ければと思います。
声は失ってからでは取り戻せない。
一人一人に宿った奇跡であり、歌えることは特別なことなのですから。
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